トニー・ロコは1〜2月の「新春黄金シリーズ」以来約5か月ぶり3度目の来日。2度の新日本プロレス来日で、ファン、関係者に高い評価を受けて短期間での再来日が実現。
前回の来日では開幕戦の1月5日、大田区体育館で海外遠征出発前の藤波辰巳と対戦、また、最終戦の2月2日、札幌中島スポーツセンターではセミファイナルで猪木とシングルマッチで対戦し、いずれも敗れましたがテレビ生中継であり、高評価ぶりが窺えます。
直近の6月15日(日本時間16日)にはロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムで藤波のWWFジュニア・ヘビー級王座に挑戦、13分、藤波のジャパニーズ・レッグロール・クラッチホールド(回転足折り固め)で惜敗しましたが、藤波を大いに苦しめました。今回はタイトル挑戦の機会はありませんが日本でも実績を作って、再び藤波のベルトを狙って欲しい選手ではあります。
初来日のメキシコのマスクマン、ウルトラマン。本名ミロ・ベンチュラ・チャベス、1947年7月14日 -メキシコ・グァナファト州コロネオ出身の当時31歳。172cm、89kg。
少年時代からボクシングとアマレスに熱中、レスリングではグァナファト州の大会でグレコローマンスタイルで2度優勝しプロレス入り。64年にエル・ディナミコのリングネームでマスクマンとして17歳でデビュー。
68年9月15日にプエブラ州のアレナ・アトリスコでセウスとのマスカラ・コントラ・マスカラに敗れて素顔のミロ・ベンチュラでEMLL(NWA系、現在のCMLL)試合をし、ロドルフォ・ルイスのナショナル・ライト級王座に挑戦も惜しくも敗退しましたが70年には新人王に輝きました。
74年10月、メキシコのルチャ・リブレ雑誌「エル・アルコン」の編集長のアイデアで日本の特撮テレビドラマ「ウルトラマン」の名前を無断借用してウルトラマンに変身。
75年よりUWAに移籍。エル・マヤ、メディコ2号、ドクトル・セタ2号、ベンガトール・ネグロ、ディスティノ・ネグロらとのマスカラ・コントラ・マスカラに連勝してその年の新人賞を獲得。
77年には、5月にビジャノ�靴裡妝廝狙こΕΕД襯拭宍蕾�座挑戦するも敗れましたが、6月19日に前々名であるエル・ディナミコのマスクマンとしてのキャリアを終わらせられたセウスにタッグマッチのマスカラ戦で直接勝利を奪い、ウルトラマンとしてセウスのマスクを剥いでリベンジを果たしています。
同年8月にレネ・グァハルドのUWA世界ミドル級王座、10月にエル・シグノのUWA世界ライト級王座に、それぞれ挑戦したが王座奪取成らず。78年8月27日、レオン・ネグロとのマスカラ戦を制してマスクを剥ぎました。今回はUWAが藤波への刺客として送り込んで来ましたが、WWFジュニア・ヘビー級王座への挑戦はなし。軽量だけに日本勢と噛み合うか、星野勘太郎、メキシコから凱旋帰国した木村健吾との対戦も面白そうです。
「地獄の墓堀り人」ローラン・ボックがついに「試合で」初来日。本名同じ。1944年8月3日 、旧西ドイツのバヴュルテンベルク州ガイスリンゲン出身。196cm、125Kg。
14歳でレスリングをはじめ、61年、西ドイツのジュニア選手権で優勝。63年にはシニア選手権でフリースタイルの3位に入賞し、翌64年の東京五輪にノミネートされますが、関節を痛めて出場を断念。68年、グレコローマンスタイルのヘビー級西ドイツ代表としてメキシコ五輪に出場、成績は11位に終わりました。
70年には欧州選手権で優勝、72年のミュンヘン五輪にも出場予定でしたが、同年に行われた欧州選手権の試合当日に体調を崩して欠場したため、ナショナルチームを除名され出場停止処分を受けています。(ドーピングで巡って西ドイツの体育協会とトラブルを起こし、出場停止になったという説もあり)。
73年、西ドイツのプロモーター、ポール・バーガー(後の発足時のIWGP実行委員の1人)のオファーを受けてプロレスラーに転向。同年9月7日、ハンブルクにてアルゼンチン出身のオスカー・ラゴとデビュー戦を行い、反則負け。
翌74年は8月31日、ミュンスターにて「岩石男」ジョージ・ゴーディエンコとの試合はシュートマッチとなっています。10月25日にはミュンヘンにてメキシコから遠征してきたミル・マスカラスに勝利を収めたとされています。78年4月8日にシュツットガルトで行われていたトーナメントでは、ダニー・リンチのラフ攻撃に逆上し、リンチの足を骨折させて引退に追い込んだともされています。
その直後、78年4月に来日、4月20日、新宿・京王プラザホテル・コンコルドボールルームで行われた新日本プロレスの「MSGシリーズ」前夜祭レセプションに姿を現したボックは「モハメド・アリと闘った日本の著名なプロレスラーである猪木を11月のヨーロッパツアーに招聘して対戦したい」と表明し猪木もこれを受諾。
西ドイツではプロモーター兼業もだったボックは78年11月7日〜29日にかけて開催された「欧州世界選手権シリーズ 」では選手として自ら猪木と闘う一方でつ、シリーズを主催しました。
このシリーズではボックは猪木と3回対戦し、1判定勝ち、1反則負け、1両者リングアウトと五分でしたが、猪木が判定負けした11月26日のシュツットガルト・ギルスベルク・ホールでの「欧州世界選手権シリーズ」決勝戦はテレビ朝日で放送され、ボックの妥協ない攻撃ぶりから現地実況を担当した古舘伊知郎アナウンサーが「シュツットガルトの惨劇」と名付け、後世まで語り継がれています。
現地のマットはオガクズを敷いた木の上にエプロンを貼っただけの硬く劣悪なもので、ツアーの日程も23日間で21試合という殺人的なスケジュールだったこともあり、猪木はシリーズを通して肩、首、腰を痛め、満身創痍のダメージを負いました。
猪木を初め、ジャック・デ・ラサルテス、ウィリエム・ルスカ、ウィルフレッド・デートリッヒ、オットー・ワンツら高額ギャラの大物を集めた割には観客が入らず、シリーズの興行成績は惨敗。ボックが主宰していた興行会社は倒産。莫大な負債を被ったボックは猪木のファイトマネーを全額支払うことができず、その埋め合わせとしてバーター取引で参戦が決定した訳です。
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