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2021年11月28日00:03

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映画日記『ぶらりぶらぶら物語』

金曜日は『風花』の前に、岐阜で1本見てきた。

2021年11月26日(金)

『ぶらりぶらぶら物語』(1962年)
監督:松山善三
岐阜柳ヶ瀬・ロイヤル劇場

全国各地を自由気ままに放浪する自称「自由業」の男・猪戸純平(小林桂樹)が主人公。
純平には相思相愛の桑田駒子(高峰秀子)がいた。
駒子は全国各地を原爆被災者と偽り、胸元のケロイドを見せながら小銭を稼ぐ詐欺師だった。
ひょんなことから、純平は幼い捨て子の兄妹といっしょに、北九州から東京までを徒歩と汽車で横断することになる・・・・

松山善三、小林桂樹、高峰秀子の『名もなく貧しく美しく』(1961年)トリオで、こんな映画を撮っていたとは、まったく知らなかった。
あまり話題にのぼらないので、たいした映画ではないのだろうとおもって見始めたら、意外なことに最後まで面白く見ることができた。

面白さの第一が、ロードムービーであること。
現在の北九州市・戸畑からはじまり、見ていてロケ地がどこか分っただけで、下関の壇ノ浦、岩国の錦帯橋、倉敷の大原美術館、和歌山の那智大社、終盤の純平と捨て子兄妹が往来の中で弁当を食べるのは東京駅だろうか。
壇ノ浦はこの夏に訪れたばかりなので、無性にうれしくなる。

第二がユニークな冒頭のクレジットタイトル。
この頃は、というか今でも、クレジットタイトルといえば、製作者や脚本、撮影などのスタッフ名と、出演者の名前を文字で表すのが普通だ。
ところが、本作のクレジットタイトルは、監督の松山善三はもちろんのこと、製作の藤本真澄や撮影の村井博に音楽の林光などのスタッフが、文字ではなく本人自身が横移動のカメラで次々と映し出されていく。
スタッフだけでなく、小林桂樹や高峰秀子ら主要なキャストも同様だ。
あれっ?!とおもった。
寺山修司の『書を捨てよ町へ出よう』(1971年)のクレジットと同じではないか!!
さらには、終盤の純平と捨て子兄妹が往来の中で弁当を食べるシーンというのが、東京駅あたりの実際の雑踏の中で撮られている。
こちらも寺山修司の『田園に死す』(1974年)のラストシーンとそっくりだ。
本作が寺山修司の映画に、なんらかの影響を与えていたのではと想像すると、ちょっと楽しい。

第三が、この当時の映画が、メディアの最前線であったことがよく分ること。
冒頭にたくさんの車が往来する若戸大橋が出てくる。
洞海湾をはさんだ戸畑と若松結ぶ若戸大橋は、前田陽一が監督し、渡瀬恒彦と桃井かおりが主演した、こちらもロードムービーの傑作だった『神様のくれた赤ん坊』(1979年)にも登場する。ずいぶんと立派な橋だったので、そんなに昔からあったのかと、ちょっと不思議だった。
帰宅してネットで検索したら、意外なことが判明した。
まず、本作が公開されたのは、1962年11月26日だ。
いっぽう若戸大橋が竣工し、往来が始まったのが1962年9月27日のことだった。
つまり、本作の冒頭シーンは竣工直後に撮られたことになる。
当時でいえば、ニュース映画並みの早さだ。
本作で初めて「東洋一の夢の大橋」と呼ばれた若戸大橋を見た人が多くいたとおもう。
もうひとつ、雑踏の中で純平とこどもたちが弁当を食べるシーンで、純平が「このベンマツの弁当は、東京でいちばん美味しい弁当だぞ」というセリフが出てくる。
わざわざ「ベンマツ」と言うところがあざとい。どうみてもCMだ。
「ベンマツ」というのは「弁松」という弁当屋さんで、今もあり、都内の有名デパートに出店している老舗のようだ。
東京に立ち寄ったらぜひとも食してみたいと、60年を経た今の私に思わせるのだから、もの凄いCM効果だ。
本作のニュース性とCM力によって、当時の映画がメディアの最前線とおもったしだい。

最後に、捨て子兄妹のお兄ちゃんを演じていたのが、金子吉延だった。
当時、7歳らしい。
金子吉延といえば「仮面の忍者 赤影」で少年忍者の青影に扮していた人。
とても懐かしかった。


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