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2020年10月19日12:24

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慈覚大師(その8)

慈覚大師(その8)
第2章 京都における慈覚大師ゆかりの地(その3)
第1節 赤山禅院(その3)
さて、比叡山延暦寺に、あまり知られてはいないが「張保皐(チャンボコ)」の碑がある。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tyanpoko1.jpg
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tyanpoko2.jpg
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tyanpoko3.jpg

張保皐(チャンポコ)という人は、800年ごろに、新羅、唐、日本にまたがる海上勢力を築いた人物である。朝鮮語でチャンボコと読む。張保皐とは漢名であり、本名は弓福(又は弓巴)だった。
張保皐(チャンボコ)は790年頃に新羅南部の海岸地帯に生まれ、810年中国の山東半島に渡り、その地の軍閥勢力であった徐州武寧軍に入って、高句麗人出身の北方軍閥・李正已と戦った。徐州節度使配下の軍中小将の地位を得た後、828年頃に新羅に帰国し、興徳王に面会して新羅人が中国で奴隷として盛んに売買されている実情を報告し、兵1万を授けられて清海鎮大使に任命された。清海鎮は現在の全羅南道莞島郡に相当し、任務は奴隷貿易禁圧である。

張保皐(チャンボコ)は、海賊達を平定するに当たって、武力での鎮圧ではなく、奴隷貿易よりも安定して高収入が得られる海運業・造船業の仕事を与える方策を用いたといわれる。
現在の全羅南道莞島に根拠地を置いた張保皐(チャンボコ)は、新羅南部の群小海上勢力を傘下に収め、唐・日本と手広く交易活動を行い、中国沿海諸港に居住するイスラーム商人とも交易を行った。このため、張保皐の勢力は東シナ海・黄海海上を制覇し、東アジア一帯の海上王国に発展し、その名前は日本でもよく知られるようになった。



張保皐(チャンボコ)は北九州の官人や入唐僧などと貿易を通じて深くかかわっていたことが記録されている。張保皐船団が交易を行った福岡(当時の筑前国)の太 守・文屋宮田麻呂は退任後も本家がある京都に戻らず、同地に残り、 張保皐(チャン・ボゴ) と取引をしたほどだという。何であれ、張保皐(チャン・ボゴ)が日本との取引を重 視していたことが大きい。



9世紀前半、山東半島の港町・赤山には、当時、多くの新羅商人が居留していた。彼らのために、 張保皐(チャンボコ) は赤山法華院を寄進した。また、 張保皐(チャンボコ) 、短期で帰国しなければならなかった円仁が不法在留を決意したのを見て、円仁のために、地方役人と交渉して長期滞在を可能にした。さらに、 張保皐(チャンボコ) 円仁の9年6ヶ月の求法の旅を物心両面にわたって支援した。円仁の日本帰国時には 張保皐(チャンボコ) 自身はすでに暗殺されていたが、麾下の将・張詠が円仁の帰国実現に尽力した。円仁の『入唐求法巡礼行記』には、 張保皐(チャンボコ) の名前が数箇所登場している。

これらのことは、比叡山延暦寺にある「張保皐(チャンボコ)」の碑の説明文に書いてある。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tyanpoko4.jpg

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