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2020年08月17日09:17

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沖縄の歴史(その20)

沖縄の歴史(その20)

第5章 琉球が日本国に併合されるまでの経緯(その6)
第2節 琉球藩の廃藩置県


1871年(明治4年)に締結された日清修好条規において、琉球の帰属問題は触れられておらず、琉球は明の時代からずっと中国の朝貢国であり、日本国のものではないというのが清朝の認識であった。琉球王国自体は、琉球人はもともと日本民族であり、琉球王国の国王の出自も日本であるという認識であったが、中国への朝貢を続けていたし、中国の認識も日本の認識とはまったく違っていたのである。1874年の互換条約以降、それが原因で日清両国は外交上にらみ合うことになる。清朝にしてみれば、1874年の互換条約は屈辱の条約であったようだ。日本軍の台湾出兵は、清朝は日本が日清修好条規に違反したと解釈して清朝に日本への強い警戒心と猜疑心を抱かせ、その後、日本を仮想敵国に北洋水師(艦隊)の建設が始まるなど、清に海軍増強と積極的な対外政策を執らせた。
874年の互換条約は、琉球の帰属問題で日本に有利に働くが、清は琉球の日本帰属を正式に承認したわけではなかった。明治政府は翌1875年、琉球に対して清との冊封と朝貢関係の廃止、ならびに明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との朝貢関係を継続する意向を表明。清は琉球の朝貢禁止に抗議するなど、外交上の決着はつかなかった。
琉球王尚泰はその後も清への朝貢を続けたが、1879年(明治12年)、明治政府は琉球王尚泰を東京へ連行、内務官僚・警察隊・熊本鎮台分遣隊を派遣して鹿児島県へ編入し、沖縄県を設置、同年中に沖縄県を設置した。これが琉球における廃藩置県である。


1874年の互換条約は屈辱の条約であったようだ。日本軍の台湾出兵は、清朝は日本が日清修好条規に違反したと解釈して清朝に日本への強い警戒心と猜疑心を抱かせ、その後、日本を仮想敵国に北洋水師(艦隊)の建設が始まるなど、清に海軍増強と積極的な対外政策を執らせた のである。それに呼応して日本も軍備拡張を促進させ、遂に、1894年、日清戦争が勃発するに至る。その結果、日本の圧勝になり、台湾を日本の領土とすることになる。すなわち、日本と中国の国境が確定したのである。それにより自動的に、琉球の帰属もはっきりした。沖縄県が日本であることがはっきりしたのである。


第5章第2節の全体:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okireki52.pdf



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