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2019年06月14日06:24

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慈覚大師(その16)

慈覚大師(その16)
第3章 立石寺(その6)
第4節 秦氏の活躍


第3節の(1)は、黒曜石の道や「山の道」を通じて、多分、諏訪の文化が仙台方面に伝わったのではないかとい観点から述べたものである。それの先導役を務めたのが、物部系の人たち、すなわち長髄彦系の人たちではなかったか。坂上田村麻呂は、東北地方の人たちとうまくやっていくためには、秋保の豪族と協力関係をもつくらなければならない、ということを知っていたのではないか。なぜなら、東北地方は、長髄彦系の人たち、それはその後物部系の人たちと一体化して、平安時代には、秦一族がそれを統括していたと思われるからである。立石寺の創建についてはどうしても秦氏の活躍を想定せねばならない。

そこで、ここで「安東氏の問題」について述べておきたい。

神話にしろ民話や伝承にしろ、はたまた家系図など旧家に残された文献にしろ、それをそのまま信じるのではなく、その中に少しでも真実が隠されていないか、それを探究する学問的態度が肝要である。東日外三郡誌もそうだ。これについては、おおむね偽書であるということになっているが、その中に真実が隠されていないか?私は、今ここで、その点について考えて見たい。
まず最初に取り上げたいのは、東日外三郡誌の中に記述されている「興国の大津波」についてである。
東北大学理学部地質学古生物学教室の箕浦幸治教授らの「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」という論文(1990年の日本地質学会の地質学論集 )によると、「湖とその周辺での詳細な試 錐調査により、十三湖の歴史の大部分が内湾の環境下で作られ、 現在見られる閉塞性の強い湖の状況は、浜堤状砂丘の発達によりもたらされたという事実が明らかとなった。十三湖の周辺には過去度々津波が押し寄せた経緯が有り、650年前に発生した巨大津波による海浜砂州の出現によって、十三湖は最終的に閉塞湖となった。」・・ということが論述されている。津軽地方に江戸時代に伝承されていた都市、十三湊やそこを襲った大津波も以前は史実としては疑 問視されていたが、発掘調査や堆積物の調査が進められるに連れていずれもが事実であったことが明らかになってきたようだ。
私が今ここでまず申し上げたいのはこの点である。

では、次に安東水軍の問題に移ろう。大正時代に喜田貞吉というすばらしい学者がいた。彼は、長い間京都大学の教授を務め、東北大学に国史学研究室ができた翌年(大正12年)に東北大学に移籍し、同研究室の基礎を築くとともに、東北地方の古代史や考古学の研究に没頭した。その一つの資料として、一般人向けに書かれた「本州における蝦夷の末路」(1928年12月、東北文化研究第一巻第四号)という資料がある。それが青空文庫から出ているので、それをここに紹介しておく。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49820_40772.html

私は、 安東水軍というものが実際に存在したと思う。日本海においては、すでに縄文時代に三内丸山や北海道南部にとどまらず朝鮮半島まで、翡翠の海上輸送が日本列島スケールで行われていた事は確実である。さらに、旧石器時代から黒曜石に関わる「海の道」というものが存在した。このような歴史認識から、安東水軍の実在を思うのは私の歴史的直観による。喜田貞吉の考えを裏打ちするものはなにも持ち合わせていないが、喜田貞吉の説は信じて良いものと思う。かって、青森県の公共団体が、『東日流外三郡誌』の記載にもとづき、安東氏の活躍を村おこしに繋げようとしたことがあったが、反対が多くて取りやめになったらしい。とんでもないことだ。事実はどうであっても、ともかく伝承があって、それにもとづいて村おこしをやる事も結構かと思うが、ましてや安東氏の活躍というのは史実であるから、安東氏の活躍を村おこしに繋げるべきなのだ。現在でも青森県教育庁発行の資料などでは「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった『東日流外三郡誌』については、捏造された偽書であるという評価が既に定着している。」と記載されるなど、偽書であるとの認識が一般的になっていることは誠に残念な事だ。

喜田貞吉が言うように、 安東氏は自ら蝦夷の後裔であり、その先祖は長髄彦(ながすねひこ)の兄・安日(あび)である。私は、長髄彦(ながすねひこ)は殺されたかもしれないが、その一族は東北地方に落ち延びていったと思うので、安東氏の始祖を長髄彦(ながすねひこ)としても、あながち間違いではないと思う。

大筋は以上の通りであるが、少し細かく見ておこう。一般的に東日外三郡誌は偽書だとされているので、安東氏を長髄彦(ながすねひこ)と繋げて歴史を論考している学者は喜田貞吉ぐらいのものであり、他の学者はすべて安東氏は安倍氏の子孫であるとしている。
平安時代末の11世紀の中頃、岩手県盛岡市のあたりに本拠地を構えていた東北地方の大豪族に「安倍氏」「安藤氏」「奥州藤原氏」がいた。源氏の二代目・源頼義(よりよし)との戦(いくさ)がはじまる。その戦いで 戦死した安倍氏の頭領・安倍貞任の遺児の高星丸(たかあきまる)が藤崎(現在の藤崎町で弘前市の北に隣接する町。岩木川を下れば十三湊に至る、そのような土地。)に落ち延び、成人の後に安東氏をおこし、藤崎城を築いて本拠地とし、大いに栄えた。だいたいこのような説明になっているかと思うが、肝心の安倍氏の祖先については、いろいろな説があるにしろ、まったく曖昧模糊としている。しかし、私は、東日外三郡誌は真実を語っている部分も少なくなく、また喜田貞吉の歴史的直感力というものを信用しているので、私は、喜田貞吉と同様に、安倍氏の始祖を長髄彦(ながすねひこ)と考えている。しかし、長年月を経て、混血に混血を重ねた結果、安倍氏はおおむね物部一族と同族と考えて良い。さらに言えば、秦一族も血が繋がっていたのではないかと思う。つまり、安倍氏も、安東氏も、奥州藤原氏も、私は、物部一族や秦一族と同族意識を持っていたと考えているのである。
慈覚大師と一体の秦一族が、地方豪族にも働きかけ、立石寺建立の資金も用意し、秦氏の建築技術でもって立石寺を建設した。朝廷もそれなりに金を出したかもしれないが、それだけではこんな広大、かつ急峻な山に多くの堂を立てることはできないと思う。
今私は、「慈覚大師と一体の秦一族」と述べたが、そのことについては次をご覧いただき、是非、ご理解いただきたい。
浄蔵と秦一族、そして円仁: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hatahiei.pdf


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