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2019年06月10日07:02

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慈覚大師(その14)

慈覚大師(その14)
第3章 立石寺(その4)
第3節 立石寺創建の謂れ(その1)

立石寺は、実に広大な境内を有し、非常に急峻な山に多くの堂が建てられている。何故こんな立派な寺が建てられたのか? それをこれから説明したいと思う。

(1)朝廷の東北経営の歴史

では、朝廷の、否、藤原氏のと言った方が実体を表しているのだが、朝廷の東北経営について、話を始めるとしよう。蝦夷についての最も古い言及は、『日本書紀』にあるが、伝説の域を出ないとする考えもある。しかし、5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝には、478年倭王武が宋 (南朝)に提出した上表文の中に以下の記述がある。

「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」

この記述から、この時代には既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知ることが出来る。日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている。
7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住んでいたと推察されているが、大化年間ころから国際環境の緊張を背景とした蝦夷開拓が図られ、大化3年(647年)に越国の北端とみられるの渟足柵設置を皮切りに現在の新潟県・宮城県以北に城柵が次々と建設された。太平洋側では、654年(白雉5年)に陸奥国が設置されたが、724年(神亀元年)には国府を名取郡の広瀬川と名取川に挟まれた地(郡山遺跡、現在の仙台市太白区)から宮城郡の松島丘陵南麓の多賀城に、直線距離で約13km北進移転している。日本海側では、斉明天皇4年(658年)から同6年(660年)にかけて蝦夷および粛慎を討った阿倍比羅夫の遠征があった後、和銅元年(708年)には越後国に出羽郡が設置され、712年(和銅5年)に出羽国に昇格し陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られた。この間、個別の衝突はあったものの蝦夷と朝廷との間には全面的な戦闘状態はなかった。道嶋嶋足のように朝廷において出世する蝦夷もおり、総じて平和であったと推定されている。

宝亀元年(770年)には蝦夷の首長が賊地に逃げ帰り、翌2年の渤海使が出羽野代(現在の秋田県能代市)に来着したとき野代が賊地であったことなどから、宝亀年代初期には奥羽北部の蝦夷が蜂起していたとうかがえるとする研究者もいるが、光仁天皇以降、蝦夷に対する敵視政策が始まっている。宝亀5年(774年)には按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、弘仁2年(811年)まで特に三十八年戦争とも呼ばれる蝦夷征討の時代となる。この時期は、一般的には4期に分けられているが、坂上田村麻呂が活躍するのは第3期である。延暦20年(801年)には坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されるが、私の話は、坂上田村麻呂に焦点を当てて、その前後の頃から始めたい。

今は仙台市だが、歴史的に有名は秋保温泉がある。その秋保の秋保神社に建御名方神(たてみなかたしん)が祀られている。 秋保神社の元は坂上田村麻呂が創建した熊野神社が鎮座していたと言われるが、秋保氏15代の盛房が、1513年に名取の長井氏との合戦の戦勝を祈願して、信濃国より諏訪神社を勧請したのが始まりらしい。時代はずっと後になってのことだが、問題は文化の繋がりをどう考えるかということである。 何故、建御名方神が遥か遠く離れた秋保の地に祀られているか? その答えを得るには、東北地方の「翡翠の道」を考えねばならない。その鍵を握るのは、旧石器時代から続くところの「黒曜石の道」である。少し詳しく説明しておこう。「黒曜石の道」というのは、すでに述べたけれど、諏訪から野辺山に出て、秩父山の道を歩いて、佐久に出る。そして、佐久から、小諸、上田、真田、菅平、須坂、津南などを通って小出に出る。そこからが最大の難所で、厳しい山越えをして、只見川流域に出て、会津に至るのである。実は、北海道の白滝から日本列島を南下する「黒曜石の道」があって、それは津軽海峡を船で渡って、大曲、湯沢、山形、会津へと向かう。そして会津からは、諏訪からの道を逆行するのである。どうも会津というところは「黒曜石の道」「翡翠の道」「琥珀の道」の古代における交通の要所であったらしい。会津の琥珀は、 会津大塚山古墳の出土品がその代表的なものであろう。会津から米沢を経て山形までは容易な道のりである。山形市の嶋遺跡は、 低湿地に立地する、古墳時代後期の集落跡である。これまでの発掘調査により、柱を地面に直接打込む方式の建物跡が発見されている。出土品では、一般的な土器(土 師器・須恵器)のほか、柱材や板材などの建築材、杵などの農耕具、弓や鐙など豊富な木製品が確認される。また、県内でも出土例が少ない、子持勾玉(こもち まがたま)や琥珀玉(こはくだま)なども出土している。


今私は、「翡翠の道」を念頭に置き、会津から山形へ北上する交通を取り上げているのだが、会津から山形までは容易な道のりであって、山形も古くから栄えた土地であったと考えている。交通としては、山形から分岐して、仙台に向かう道もあったであろう。その道は、秋保(あきう)を通る。この分岐道を黒曜石の道と呼ぶわけにはいかないが、糸魚川の翡翠がわずかではあるが、仙台市から出土しているので、山形と仙台を結ぶ「山の道」はあったであろうと私は考えている。この「山の道」は、後世の二口街道であり、多くに人びとの往来があった。私は、その道を歩いた事がある。二口峠辺りからの眺望はあまり良くないが、それでも不思議な形の山が遠くに見えた。峠から南面白山に縦走できるらしい。峠を秋保方面に下ると、渓谷に臨んで岩の屏風をめぐらせたようにそそり立つ磐司岩(ばんじいわ)があり、大きな感動を覚えると同時に、磐司磐三郎なる東北山岳民族の主の活躍に想いを馳せたものである。


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