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2019年03月28日07:47

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玄奘とシルクロード(その5)

玄奘とシルクロード(その5)
1、チベットとキルギスとの繋がり(その2)
「ベデル峠踏破」について

インドの仏教は、401年、鳩摩羅什によってシルクロードを通じて中国に伝えられたが、上に述べたように、シルクロードとは別ルートでチベットに入ってきて中国とは異なるチベット独特のチベット仏教として発展した。チベットは、古来、交通の要所であった。インドやシルクロードとも繋がっていた。

そういうチベットというとこについて書いたのが、次の報告書である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tibettoto.pdf


その中でチベットのガリ地区については次の通り説明した。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/garitiku.pdf

グゲ王国は、9世紀に、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国・吐蕃の王族の一部が西チベットで建国した王国。


ガリ地区について、ウィキペディアでは次のように説明している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E5%9C%B0%E5%8C%BA#%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%8C%BA%E3%82%AC%E3%83%AA%E5%9C%B0%E5%8C%BA


インド、ネパールの貿易拠点として栄えた。さらに、キルギス側からトルファンやウルムチにも行けたのである。つまりチベットは古くからキルギスにおいてシルクロードとつながっていたのである。

これをキルギス側から言えば、キルギスはヨーロッパや中国のみならず、インドとも繋がる大拠点であったのである。玄奘三蔵のインドへ旅は、高昌国の次はキルギスに向かうことになる。



高昌王の援助

仏教をあつく信じていた[高昌王]麹文泰(きくぶんたい)は、玄奘が高昌にとどまって自分の先生になってくれるようさかんに要請したが、玄奘はこんなところでとどまるつもりは毛頭ないから、三日の絶食をして意思をまげなかった。

決意のかたいことを知った麹文泰は、母である張太后(ちょうたいごう)を証人として仏前で兄弟のちぎりをむすび、インドからの帰り道にも立ち寄って三年の間とどまって供養(くよう)を受けるよう約束させた。

そこで麹文楽は、玄装の出発に際していろいろな旅装をととのえてやった。
(一)衣類 僧侶としての衣装三十具。頭巾(ずきん)、手袋、靴、靴下などおのおの数点。
(二)旅費 黄金百両、銀銭三万、綾(あや)ぎぬ五百匹。
(三)身のまわりを世話する人 四人。
(四)人足 二十五人。
(五)馬 三十匹。

その上さらに臣下にエスコートさせ、西突厥の統葉護可汗(ヤブク可汗)の王庭まで送らせた。高昌の西のクチャをはじめとして、通過する道筋の二十四国の王には、それぞれおおきな綾ぎぬ一匹と手紙、統葉護可汗には、特別に綾ぎぬ五百匹と果物を満載した車二台を用意した。添えた手紙には、
 「法師はわたくしの弟であります。仏法を求めて、インドへまいろうとしております。どうか可汗は、わたくしめと同様、法師にもまたあわれみをたれ賜(たま)わんことを」
としたため、玄奘を紹介して全面的援助を依頼した。インドに経典を求めて西暦629年西安を旅立った玄奘三蔵は回り道をしてもキルギスタンに入らなければならない理由があった。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tokkitu2.jpg


当時、キルギスには中央アジアの有力な支配者である西突厥のヤブク可汗がいた。そのヤブク可汗に高昌王は玄奘の庇護を頼もうと大変な気配りをしたのである。
しかし、高昌国からキルギスに入るには、天山山脈を越えねばならず、これが大変な難路であった。
玄奘は高昌の歓信(かんしん)というひといっしょに、たくさんの荷物を馬につんで、大キャラバンをくんで天山山脈を越えた。

古来中国から西トルケスタンへ入る峠の一つベデル峠は標高4284m。3月の峠は氷点下の気温と寒風が吹きすさぶ難路であった。
「大慈恩寺三蔵法師伝」はこの峠越えで従者の3、4割が凍死し、牛馬はそれ以上であったと記している。まさにベデル峠越えは天竺(インド)への往路の最後の難関だったのある。しかし、多大の犠牲者を出しながらも7日間の山路を経て、ようやく玄奘三蔵は大清池(現在のイシク湖 琵琶湖の9倍)に入ることができた。

玄奘は次の図のベデル峠をこえた。それが凌山越えである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/bederu.jpg


玄奘はようやくにして大清池(現在のイシク湖)に入ることができた。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sanzounomiti.jpg

そして、西突厥のヤブク可汗にまみえるのである。

ヤブク可汗は、高昌国王の公式の手紙と綾きぬや果物など膨大な贈りものをうけとり、大満足であった。使者たちをすわらせ、酒を出し、音楽をやらせ、可汗はなみいる部下たちや使者たちと酒宴をひらく。
玄奘に対する便宜もまた、これにしたがって絶大なものがあったのである。玄奘には特別につくったものをだしてくれた。コムギ粉のパン、米飯、ヨーグルトやミルク、氷砂糖、蜂蜜でつくったもの、葡萄などがそろっていた。食事がおわると葡萄のジュースをのんだ。
そこで可汗は、玄奘に仏の教えを説教するよう要請した。

玄奘は、十の善行(ぜんこう)を実践して生きとし生けるものの命を大事にしなければならないという根本から説きはじめた。

パーラミタという大乗の行法が解脱にいたるわざであるという点にまで説きすすんだ。可汗は両手をかかげて額をうち、喜びにたえないというふうで、教えをその心にうけたのであった。

こんなことで、ここに滞在すること数日。可汗は玄奘にいった。
「インドには行かないほうがよろしかろう。あそこは暑さきびしく、…」
という。玄奘は答えた。
「いまそこへ私が行こうというのは、仏のあとをたずね、その教えを慕いもとめたいとおもうだけです」

それではしかたがないということで、可汗は軍中に命令して、中国語と諸国語がわかるものをさがさせたところ、以前に長安で数年すごし、中国語がわかる青年がみつかった。すぐにこれを通訳官に任命し、またおおくの国書を作成し、かれに護送させてヒンドゥークシュ山脈の南のカーピシー国まで到達せしめることになった。

一方、綾ぎぬの緋(ひ)の法衣(ほうい)をひとつと、絹布五十匹を玄奘に布施(ふせ)し、可汗は群臣とともに十里ばかり見送ってくれた。


玄奘は、その後、シルクロードを西へ進み、(ウズベキスタンの)タシケント・サマルカンドを通り、(アフガニスタンの)バーミヤン、ガンダーラを通って、インダス河を渡り、カシミールに入るのである。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sanzounomiti.jpg


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