mixiユーザー(id:63255256)

2019年02月20日00:40

162 view

合戦考証26「夜襲の被害」島原の乱

○籠城軍が夜襲をかけてきたことで、黒田家にかなりの被害が出た模様です。前回は、詳細報告の「九一九番」を第七文まで書きました。まずは残りの文章です。

●忠利九一九「2月23日」第八文〜追伸
「一つ、鉄砲の火薬箱を二つ取られたそうです。鍋島軍には首数九十三があります。負傷も死者も少ないそうです。黒田の陣へ、最初に夜討ちが入ったときは、竹束で仕寄をした裏であったため、小屋は少なく、火をつけなかったので、敵か味方かもわからなくて、首数はありません。次に鍋島の陣へ出たときは、あちこちに火をつけていたため、敵と味方が判別できたので、首数があるのです」
「一つ、寺沢の陣では家を焼かれておりません。黒田の陣へ夜討ちが入ったのを聞いて、小屋へ早くも兵を出したため、具合よくいきまして、首は十三、負傷も死者も少しあります。三宅藤兵衛の子で藤右衛門が、二ヵ所に傷を負い、組の者は(首を)稼ぎました。藤右衛門は寺沢軍の二番手なのですが、先手組が遅く出たので、こうなったと言っております」
「一つ、このほかには変わりもございません。松伊豆殿の小屋が当家の向かいにありますけども、少しも兵たちは騒ぎませんでした。今までは、こうだとは思いもしませんでした。江戸衆は、どこも兵たちはそうではないからです。非常によくできていると思いました。左門殿の小屋は山の裏なので見えませんでした」
追伸「なおなお、同士討ち、また町人なども大勢が死んだとの話です」

○戦場のようすを簡単に示します。島原半島の南部に位置する原城ですが、城の南が「海に突き出す」ような地形です。東西と、南の三方が海に面していて、崖下が浜辺になっています。よって幕府軍は、城の北側のみに布陣しています。南西の隅に本丸で、その東側に二ノ丸、さらにその東が三ノ丸と、横長の造りになっていて、中央部にある二ノ丸には、北側の正面に出丸があります。要は「凸」の字を平たくつぶしたみたいな感じです。最も西側で、本丸下に仕寄を付けていたのが黒田家。反対側、最も東側で細川家が、仕寄を付けていました。

○第五文に「夜討ちに出てきた場所は、大江口から出てきて、鍋島の前の出丸口へ入っていきました」の記述がありました。大江口というのは、西側「本丸下」の出入口のことです。そして敵は「黒田のところの柵を五ヵ所も破り、仕寄の内側へ入り、そこから寺沢の陣取っている前を突っ切って、鍋島の本陣脇で家を百ほど焼き、そこから裏のほうの柵を二ヵ所で破り、また仕寄の内に入って、井楼を焼き落とし」たうえで、中央の出丸口から城へ戻ったというわけですね。原文は「黒田手柵五所破り、仕寄之内へ入、それより寺沢陣取之前を打通、鍋島本陣之わきを家百計やき、それよりうらの方のさく二所やぶり、又仕寄の内へはいり、勢楼をやき落し」です。つまり、西から出た敵は、正面の「黒田の仕寄」を壊して、中に入ると、そのまま北へ進み、黒田軍の背後に布陣していた「寺沢の陣」のほうまで駆け進んで、東隣の「鍋島軍の本陣」の脇で放火して回り、そこで「鍋島の仕寄」を壊して押し込むと、南へ走り戻っていく途中で井楼(せいろう)を焼いて、出丸口から城内へ戻ったということ。この文章を理解すれば、もはや「仕寄とは、竹束を抱えて城に突撃すること」なんて解釈など、通用するはずもないってもの。しかも「仕寄の内に軍勢はいない」こともわかりますよね?

○もちろん「仕寄を放置している」はずもなく、夜の警備がいますので、敵が最初に入り込んできた黒田軍でも、戦闘になっています。ところが第八文に「小屋は少なく、火をつけなかったので、敵か味方かもわからなくて」の記述です。原文は「小屋すくなく、火を付候事無御座候故、敵味方知かね」です。しかし鍋島軍のほうでは「あちこちに火をつけていたため、敵と味方が判別できた」で、原文は「方々に火を付申候故、敵味方能見え候」です。そのうえ追伸には「同士討ち」の言葉。原文だと「味方討」です。敵の動いたルートを見る限り、仕方ないことですけども、黒田家では「暗くてよく見えない」がため、同士討ちまで起こったほどの被害。一方「あちこち焼かれたあと」の鍋島家では、炎の明かりで敵がわかることによって、被害が少ないわりには「敵の首を多く取っている」わけ。

○細川家では戦闘自体がなかったようです。第三文に「当家のほうへは一人も出てきませんでした」の記述がありました。ゆえに被害もなければ、手柄もないという次第なんですが、以前に「忠興の質問へ逐一、忠利が答える手紙」があったのを覚えていますでしょうか。その第二文で「忠興が忠告する内容」をもう一度。

●忠利九一一「2月4日」第二文(忠興の質問状からの書写部分)
「一つ、おまえの仕寄の左のほうに、城からの門口が絵図に見えている。言うまでもないことだが、前々から仕寄の近所の門口は、大事なところだと聞き及んでいるだろう。三度ほどは城から出て、竹束を壊すとか、または仕寄の者どもが面目を失うとか、他家の事件を見覚えている。この場所は、しっかりと命じておくのが大事だと思う」

○まさしく「忠興の忠告どおり」に事件が起こったわけですね。敵は「大江口」という城の門口から出て、仕寄の中を駆けずり回って放火して、別の「出丸口」という門口へ逃げ戻っていったわけですからね。しかも今回は「仕寄の者どもが面目を失う」どころの話ではありませんで、味方の被害が多数に及ぶほどの事態です。しかし忠利は、父の忠告に対して「仰せのごとくだと思いましたので、柵を付けて、さらに張番を厳しく命じました」と答えていました。そしたら「敵は細川の仕寄のほうへ出てこなかった」わけです。こういう点を考えた際、「敵に仕寄を破壊されたけど、戦って首を取った」のと、「敵が出てこられないようにしたので、戦わなかった」のと、どっちが「武士として手柄」なんでしょうか?
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する