mixiユーザー(id:33884029)

2018年07月29日15:05

57 view

リズム論(その28)

リズム論(その28)
第2章 中村雄二郎の「リズム論」 (その20)
第3節 「リズム論に基づく生活」について(その7)

3、「哲学的宗教」について(その1)

「対称性社会の知恵」という文章の中で、私は、「哲学的宗教」について、次のように述べた、すなわち、
『 ちなみに、中沢新一のいう「宗教的思考」は、「思考」が宗教的な側面を持っているということであって、宗教そのものではない。哲学的にみて意味のあ る考え方のことである。したがって、私のイメージする将来あるべき「宗教的思考」とは、学者とりわけ哲学者にも支持されるような宗教がもっている考え方と 同じような考え方といっていいようなものである。したがって、多くの人がそういう宗教をもたなければならないと考えているわけではない。必ずしも宗教にこ だわっているわけではない。しかし、そういう「哲学的宗教」が新たな地平を切り拓いていくであろう予感は持っている。つまり、新たな地平というものは哲学者と宗教家の働きがあってはじめて切り拓かれていくものであろう。どちらが欠けてもいけない。
 
哲学は理論である。宗教は実践である。実践にもとづく「直感」が大事である。超越者に対する「直感」が働くような実践がないといけないと思う。理論 と実践・・・、それが「哲学的宗教」である。「哲学的宗教」は宗教的哲学者と哲学的宗教家の活躍があってはじめて一般的な宗教となるのであろう。その理論 と実践の仕方は違うであろうが、双方とも専門家であるが故にそれなりのレベルのものが身についていなければならない。しかし、一般大衆は、事情がまったく 異なる。一般大衆は、専門家ではないので、理論も実践もほどほどのものであってやむを得ない。しかし、宗教であるから、理論ははともかく、実践 は・・・・、一般的なものであるにしても、それなりの「試練」というか「受苦」は必要であろう。そこがもっとも肝心な点である。もちろんその実践は非日常 的であってよい。私は、非日常的に「自然」の中で宇宙との「響き合い」を実感する・・・、そのことが大事であると考えている。すなわち、「対称性社会の知恵」は・・・・、理屈によってではなく、宇宙との「響き合い」という体験の積み重ねによって身に付くものと考えているのだ。修験道もよし。山登りもよし。 これらは今の人びとや自然とのコミュニケーションだが、この他、時空を超えた人びと及び文化とのコミュニケーションもきわめて大事なことだ。ともかく宇宙 との「響き合い」をできるだけ数多く経験することだ。そのための場所づくりが望まれる。』・・・と。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する