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2018年03月18日03:15

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本史関ヶ原79「真田問題」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、岐阜戦と同時期に、もう一つ大きな問題があります。栃木県にいた徳川秀忠が、長野県の真田昌幸を攻めたこと。俗に「秀忠は真田のせいで足止めされて、関ヶ原合戦に遅参するという失態をおかした」と言われる件ですが、それは本当に事実なのでしょうか?

●細川家史料9月8日「返信」細川忠興「宛」細川忠利(ミツ)

○間違いのない原本史料、細川忠興の手紙。息子の忠利が「家康の出陣を報せてきた」ことに返事を書いたもの。文中に「中納言殿信州通御上之由、此方へも相聞候事」とあります。この書き方であれば、忠利が「中納言秀忠のことも書いてきた」ので、「その件はこちらでも聞いている」と返事をしている意味です。問題なのは「信州通御上」の文意ですね。普通に読む限り「信州を通って」は「長野県を経由して」の意味に思えますし、すると「御のぼり」は「中仙道を西へ進んでいる」の意味になりますから、「秀忠は中仙道で岐阜へ向かっている」の意味となるでしょう。ただし疑問が一つありまして、「通る」の動詞に敬語表現がないことなんです。よって「通」は名詞で「みち」と読むべきかも。つまり「信州路」の意味で、要は「中仙道」のこと。その場合、単に「中仙道を西へ進んでいる」だけの意味となって「岐阜へ向かっている」とは言えなくなります。「家康は東海道で、秀忠は中仙道で関ヶ原を目指した」という「解釈」が先に存在することによって、「信州通御上」を「岐阜へ向かっている」と読んでしまうことはできますけども、ほかの読み方も可能である以上、この記述をもって「秀忠が関ヶ原を目指していた」ことの根拠にできないわけです。もちろん「目指していなかった」と反論する根拠にもなりませんけどね。せっかくの原本史料なのに。

●家康文書8月23日「差出」徳川秀忠「宛」岡田善同
●家康文書8月23日「差出」徳川秀忠「宛」真田信之
●家康文書8月24日「差出」徳川家康「宛」浅野長政

○絶対に優先されるべきは原本史料です。その次に「原本からの書写かもしれない」写本史料です。『徳川家康文書の研究』には、秀忠が「自分の出陣を報せる手紙」があります。岡田善同宛ては、ほかに三通も「同文の手紙」がありますけど、秀忠の名前を略して「御字」や「御諱」と書いていますので、もともと写本から採録したもの。後世になると「将軍となられた秀忠様の御名前を、写しといえども書くなど恐れ多い」として書かないんです。そのせいで「簡単に偽造史料が作れちゃう」ってわけですけどね。しかし岡田宛ては原本があった可能性もありえます。二十三日付で「当面隙明候間、信州真田表為仕置、明二十四日令出馬候」の文章です。「こちらの手があいたので、信州の真田方面、仕置きのため、明日の二十四日に出馬します」で、出陣する前から「目的地は信州真田方面」と明言です。「関ヶ原を目指す途中で、真田に参陣を求めたら、真田が敵対したので、上田城を攻めた」という話とは、少なくとも「一致しない」記述です。そして同じ二十三日付の真田信之宛てのほうには「明二十四日、此地を罷立、ちいさ形へ相働候条、其分御心得、彼表へ可有御出馬候」とあります。「ちいさ形」は小県(ちいさがた)のことで、真田昌幸の本拠地ですね。信之に向けて「真田の小県へ働くので、そう心得て、あちらへ(信之も)出てくるように」と言っていて、出陣の目的は「真田へ働くことだ」と明言しているわけなんです。これらが偽造史料であるならば、「秀忠の関ヶ原遅参」という『徳川実紀』にも書かれている話と「一致しない記述」を、なぜ偽造作者は、わざわざ書くのでしょうね?

○面白いことに、「定着している話」と「それとは違う記述」の整合性をつけるかのような手紙史料まで存在するんです。「九四号」は秀忠の書いた黒田長政宛てで二十八日付。「今二十八日上州到于松井田令着陣候」ですから、碓氷峠の手前の「群馬県の松井田」に「二十八日に着陣」で、まだ長野県に入る前。けれども文中に「信州真田表仕置為可申付」とあって、「出陣目的は真田の仕置き」と言っている点では前述の二通と同じ。ただし「近日彼地へ押詰、手置等申付、隙明次第、可遂上洛覚悟に候」と書いていて、「真田の城に押し詰めて、配備を命じて、手があき次第、上洛を遂げるつもりの覚悟です」ってわけ。つまり「出陣の目的は真田を攻めること」だけど、「城の周囲に布陣して、封鎖の配備を済ませたら、すぐに上洛しますからね」と言っているんです。この記述は一見「城は攻めないで封鎖するだけ」の「攻めない合戦」と一致するようですが、歴史の結果として「真田を攻め落としていない」ことを知っている者なら書けるでしょ?

○「攻めない合戦」とは、結果的に「城を攻め落とせない」の意味ではないわけです。「城へ攻め込むよりも、平地で戦うほうが戦いやすいから、籠城軍とは戦わずに、救援軍のほうと戦う」んです。じゃあ「真田が籠城した」とき、誰が救援に来るんでしょう?「誰も救援に来ない」または「救援軍の到来に一ヵ月はかかる見通し」の場合、「仕寄をかけて攻め落とせばいい」んです。物語の「真田軍記」で定着している展開は、「救援のあてもないのに真田が籠城する」し「秀忠は力づくで城に攻め込んで失敗する」んですけども、「現実の秀忠」が「仕寄戦法の存在も知らない」ほど「バカだと思っている」から書ける話です。ところが『徳川家康文書の研究』には、家康の浅野長政宛て二十四日付があって、そこには「中納言信州口へ為相働候間、其許御大儀候共、御出陣候而、諸事御異見頼入候」とあるんですね。「秀忠が信州口へ出て働くので、あなたも御苦労でしょうが出陣なさって、いろいろ御意見を頼みます」で、秀吉の義弟であり、信長の合戦も、秀吉の合戦も間近に見てきた浅野長政に「秀忠の後見」を頼んでいるんです。浅野長政ですら「仕寄も知らない」とバカにするか、さもなくば「この手紙は偽造史料だ」と否定するか、どっちかですけど、どっちにします?

○秀忠の出陣目的が最初から「真田の仕置き」であるならば、「素直に降参すれば寛大な処分だが、抵抗すれば仕寄で落とす」に決まっています。それだけの大軍を連れていっていますからね。「岐阜へ行って、前線に合流することが目的」ならば、真田がゴネたところで無視ってもの。そもそも「上田城に立てこもることで、秀忠の大軍を相手に戦ってみせた真田昌幸の見事な采配」という「お話」でしょ?「自分から城を出てきて、平地で攻めたら、勝てるわけない」から、そういう「お話」にしているんじゃないですか。だったら秀忠は「真田が追撃してくれば、返り討ち。出てこなければ、無視して先へ行く」だけのこと。「前線に合流する」のと「真田の仕置き」は両立しないことなのに、それを書いちゃっている手紙史料さえあるわけでしてね。じゃあ「どちらが本来の目的だったか?」と言えば、結果的に秀忠が「関ヶ原に参戦していない」以上、やっぱり真田の仕置きに行ったんじゃないでしょうか。「それはおかしい。徳川が天下を取る大事な合戦に、秀忠が来る予定もなかったなんて」と思う人は、「天下取りの戦い」という前提で話をしているからで、「大坂豊臣衆と東海豊臣軍団の内乱みたいなもんで、それに毛利と徳川が巻き込まれた」なら、べつに「秀忠が来なきゃいけない」理由はないんです。徳川家としては「真田の離反」のほうが政治問題かも。
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