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2018年03月14日01:31

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本史関ヶ原78「八月末の上杉家」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、ここで一旦、岐阜を離れて、同時期に上杉家がどうしていたのか、その点を見ておこうと思います。

●五三号8月2日「差出」長束、増田、石田、前田、毛利、宇喜多「宛」真田信之
●景勝公御年譜8月24日「差出」上杉景勝「宛」直江兼続

○ちょっと謎めいた手紙があります。会津の居城にいる上杉景勝が、領内東部のどこかにいると見られる直江兼続に送った手紙。「あれ以降、そちらから何も言ってこないので、心もとないです。そちらは何も変わりないでしょうか。こちらは、どこにも異状はないので安心してください。南山も、その後に変わりはないでしょうか。いろいろ伝えてきてほしいのです。米沢方面、ますます異状もないことだろうと思います。実は関東のほうで、ようすの変なこともあるので、おいおい伝えていきます」という内容。末文の原文は「又関東下筋之様子、珍儀茂候者、追々可申越候」です。関東で「珍儀も候はば」だそうで、珍儀って何?

○『上杉家御年譜』には、この一通しか掲載がないのですけども、『日本戦史関原役』には景勝の手紙「八二号」があります。宛名は「長束正家、増田長盛、石田三成、前田徳善院、毛利輝元、宇喜多秀家」の五名で、二十五日付。出典は、なぜか「真田家文書」です。箇条書き形式で「一、何々」と八項目の内容が書かれていますが、まあ偽造史料でしょうね。とはいえ、前半の四項目は五三号の内容と一致しているんです。五三号の出典は「真田軍功家伝記」で、真田家の活躍を書く物語なのですが、五三号の内容自体は妙にリアルで、「本物の家康弾劾状ではないか」と思えるもの。以前に何度も書いたことなので割愛しますが、まるで「八二号」は、五三号が会津に届いてきたので「書いた返事」に見えるんですよ。しかも、この書き方ですと、五三号を読んだことにより「初めて大坂の事情を知りました」の意味になってしまうんです。すると『御年譜』には、二十四日付で「関東のようす、珍儀もある」と書いた手紙が存在しているっていうわけ。

○ちなみに『御年譜』は米沢藩上杉家の公式記録。関ヶ原合戦については「上杉家が石田三成と、事前共謀などしていない」の主張です。ゆえに当然「大坂で何が起こっているのかを知るはずもなかった」ことになりますので、二十四日の時点で「何かの情報」を得たがために「初めて知った」となるのでしょう。このとき五三号が「本当に届いてきた」可能性は確かにあります。手紙の内容を見る限り、上杉家は「まだ何もしていない」からです。ひたすら防備に努め、「異状なし」と警戒しているばかりです。しかし九月に入ると攻勢行動に出るんです。

●一二五号9月29日「返信」伊達政宗「宛」村越直吉、今井宗薫

○伊達政宗が「東北の情勢」を報告した手紙。「長谷堂城の戦い」に関する内容が書かれています。「九月に上杉が山形へ出陣した」ことは間違いないと見られますが、『御年譜』にさえも「七月中に伊達と戦った」と書く偽造史料が入っていますので、「七月中から東北では戦闘状態になっていた」の解釈になっています。しかし上杉家が「北へ兵を出す」からには、「南の関東からは侵攻がない」と確信できたからのはず。それを示唆する史料こそ、景勝の二十四日付手紙です。

○問題は「八二号」が本物かどうかですね。後半四項目の中には「石田の偽書手紙・五八号一番、二番」の内容が含まれているんです。史料精査の段階では「本物があったのに、内容を書き換えてしまった改変史料ではないか」と推測しました。なぜならば、「八二号」が大坂に届いたかどうかで「毛利軍の戦術想定」がひっくり返るほど変わってしまうからです。ところが岐阜戦の展開を詰めてきた結果、「八二号」の存在価値が激減してしまいました。フィクション的には「八二号」が届いたことで、「景勝が関東で戦っていないことを輝元が知った」とするほうが劇的ですけどね。やはり現実は、そこまで都合のいい展開にはならんのですよ。『孫子』の戦術思想に照らしても、豊臣軍団は「岐阜戦の終了後、大垣戦の開始前」に、吉川広家と小早川秀秋へ「あなた方の得た情報は間違っています。家康公は出馬してきます」と伝えているほうが自然です。かつての解釈ですと「家康は味方へも平気で嘘をつく」「戦争だから敵をだますのがあたりまえ」となるでしょうが、それは「本当の戦争には通用しないフィクション」でしてね。

○こう考えてみてくださいな?「戦争では、敵をだますために、手紙で嘘を書くのもあたりまえのこと」であるならば、「家康に味方する毛利や石田や三奉行」が「上杉家を油断させるため」に「我らは徳川に対して大坂で挙兵した。徳川は会津を攻められません。安心してください」と「嘘を伝えてきた」可能性だってあるわけです。「そんなことはありえない。毛利も石田も本当に挙兵していて、上杉をだますようなことはしていない」と断言できるのは、「関ヶ原合戦が実際にあったことを知っている後世の人間」だからでしょう?「リアルタイムの上杉景勝」が「大坂で急変。家康は会津の問題どころではなくなった」と聞いたからって「はい、そうですか」と信じるのは愚かってもの。けれど「直江は石田の盟友で、事前に話を石田から聞いていた」とすれば、連絡が来た途端に「よし。石田が動いた」と「すぐさま信じられる」のだし、その展開にしてしまう限り、景勝が「どのような過程で、確信するに至った」のかを細かく「考えなくていい」わけですから、楽に創作できちゃいます。かくして「共謀説」が広く定着。「当の上杉家」が「事前共謀はない」と『御年譜』で主張していても、それは無視。

○同様に、黒田長政が吉川広家に「家康公は来ますよ」と伝えたからって、吉川がそれをすぐさま「信じる」と思います?「後世の人間」は「実際に家康が出馬してきたのを知っている」から「事実を伝えている」と思うのでしょうけど、吉川の立場で見れば「嘘かもしれない」じゃないですか。長政が「正直に事実を伝える」ことは、裏を返せば「揺さぶり」にもなるんです。長政としては「正直」ですから、あとは「受け取る吉川の側」の問題ってもので、これこそ『孫子』の言う「兵は詭道なり」です。「手紙に嘘を書けば、相手は常にだまされる。事実を書けば、常に信じてくれる」なんてのは、都合よく展開する物語の中だけ。
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