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2018年02月24日11:45

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三国志(その8)

その8、玄徳冀州へ奔(はし)る

淮南の袁術は、自己の僭称せる皇帝の名と共に、持つところの伝国の玉璽をも、兄袁紹へ譲与するために、淮南から袁紹にいる河北に向かおうとしていること、そして、その袁術をやっつけるという名目で劉備は徐州に戻ったことは、「その6」において述べた。
袁術は、賢帝がまだ健在であるにも関わらず後漢の時代は終わったとの見通しを持っており、古くからの名門貴族なるがゆえに皇帝を名乗った人物である。

「その8」では、まず袁術の惨めな最期が描かれる。淮南の袁術は、みずから皇帝と称して、居殿後宮も、すべて帝王の府に擬し、莫大な費えをそれにかけたので、いきおい民に重税を課し、暴政のうえにまた暴政を布くという無理をとらなければ、その維持もできない状態になってしまった。当然――、民心はそむく、内部はもめる。雷薄、陳闌などという大将も、これでは行く末が思いやられると、嵩山へ身をかくしてしまうし、加うるに、近年の水害で、国政はまったく行き詰まってしまった。そこで、袁術が、起死回生の一策として、思いついたのが、河北の兄袁紹へ、持て余した帝号と、伝国の玉璽を押しつけて、いよいよ身を守ることだった。

徐州の近くである。玄徳の軍は待ちうけていた。総勢五万、朱霊、露昭を左右にそなえ、玄徳をまん中に、鶴翼を作って包囲した。
次々と、袁術の麾下は、討ち減らされていった。そのうえ、乱れ立ったうしろから、一彪の軍馬が、袁術の中軍を猛襲し、兵糧財宝、婦女子など、車ぐるみ奪掠していった。白昼の公盗は、まだ戦っているうちに、行われたのである。しかもその盗賊軍は、さきに袁術を見限って嵩山へかくれた旧臣の陳闌、雷薄などの輩だった。そして遂に袁術は誠に惨めな死に方をするのである。

玄徳は所期の目的を果たしたので、朱霊、露昭の二大将を都へ返し、曹操から借りてきた五万の兵は、「境を守るために」と称して、そのまま徐州にとどめおいた。朱霊、露昭の二将は都へ帰って、その由を曹操に告げると、曹操は、烈火のごとく怒って、いよいよ劉備討伐の決意を固める。

曹操軍・二十万の大軍は、まもなく近々と小沛の県界まで押してきた。東のほうからは張遼の一陣、西のほうからは許、南からは于禁、北からは李典。また東南よりは徐晃の騎馬隊、西南よりは楽進の弩弓隊、東北よりは夏侯惇の舞刀隊、西北よりは夏侯淵の飛槍隊など、八面鉄桶の象をなしてその勢無慮十数万――その何十分の一にも足らない張飛、玄徳の小勢をまったく包囲して、「一匹も余すな」と、ばかり押しつめてきた。下邳の関羽はなんとか持ちこたえていたが、小沛の張飛と劉備は、それぞれ別の道へと落ち延びていくのである。劉備は止むを得ず袁紹を頼って翼州へ奔(はし)る。「かねての約束、たごうべからず――」と袁紹はただちに一軍を迎えに差向けて、玄徳の身を引取る。しかも、冀州城外三十里の地――平原というところまで、袁紹自身、車馬をつらねて出迎えにでていた。よほどな優遇である。そこまでが「その8」である。

その8、玄徳冀州へ奔(はし)る: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yokusyuuhe.pdf






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