沖縄の歴史(その12)
第4章 鎌倉時代から明治にかけての琉球(その3)
第3節 明への朝貢
明への朝貢使による貿易は時期によって異なるものの、通常は1年もしくは2年に1回、時によっては年に2回派遣を行っている。日本に対しては2年もしくは3年に1度、使者を派遣していたが、応仁の乱による日本国内の政情不安により次第に堺や博多の商人の方から琉球を訪れるようになった。
日本や明に対する献上品の中には東南アジアなどの南海諸国で取れる蘇木や胡椒があるように、東南アジアにも使者を派遣していたと考えられており、特にマラッカ王国やシャムがその対象であった。
明との交易においては皇帝への朝貢品として琉球で取れる馬や硫黄、日本産の刀剣、東南アジア産の胡椒や蘇木・象牙などが進上され、これに対して明国皇帝からの頒賜品名目で多額の金品が与えられたほか、琉球の使臣・随伴者が持参した商品は明側が買い上げる形での私貿易が行われた。また、明から入手した銅銭はその需要が高い日本との貿易で用いられた。
硫黄鳥島は、沖縄県における最北端の島で、同県に属する唯一の活火山島である。14世紀後半から明王朝へ進貢する硫黄の産地として知られ、琉球王国が滅亡する19世紀中頃まで、琉球と明・清朝の朝貢関係を繋ぐ重要な島であった。
琉球王朝の明への朝貢貿易における硫黄については以上の通り特筆すべきものがあるが、それがどの程度琉球王朝を潤したかはよく分からない。どうも全般的には、琉球王朝にとって、朝貢貿易にあまり芳しくなかったようだ。
明への朝貢朝貢は経済的負担が大きかったが、尚真王はこれに対し、領土を広げ、搾取を強化し、年貢収入を増大させる事で経済的基盤を安定させようと試みた。
尚真王が必死で搾取強化に取り組んだにも関わらず、王府の財政が全然好転しなかった事が窺える。琉球列島の人々は困窮を極めたようだ。国栄えどもたみ豊かならずというところか。そこで注目されるのがサツマイモである。
サツマイモは琉球諸島全土の食糧事情を劇的に改善した。宮古・八重山に至っては、米穀は全て王府に搾取されるため、薩摩芋とその葉っぱが唯一の食糧であった。
1500年代末期頃より島津氏が琉球に対する圧力を強めたため、琉球はその対応に迫られることとなった。
この時代の記録は王府の外交文書の集成である『歴代宝案』に残されている。
第4章第3節の本文:
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/okireki43.pdf
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