2年連続、不運なアクシデントに巻き込まれ、ワールド・リーグ戦の優勝を逃した坂口は76、77年の第3回ではペドロ・モラレスにリングアウト勝ち、第4回ではマスクド・スーパースターに逆エビ固めで勝ち、記録の上では猪木と並ぶ2連覇を成し遂げました。
しかし、いずれの大会も結果的に猪木はリーグ戦には不参加となり、新日本プロレスのリングも日本大物対決から異種格闘技路線へと色合いが変化していきました。
猪木と坂口の両雄は一騎討ちで相まみえることはなく、唯一の対戦は76年7月26日、長崎国際体育館でのアジア・リーグ戦タッグ部門公式リーグ戦。
猪木はこの年の2月にヨーロッパ修行から帰国した木戸修と組んで出場、坂口は前年5月に新日本プロレスに入団し、一緒に北米タッグ王座を保持していたストロング小林と組んで出場していました。
45分3本勝負で行われたこの試合は1本目は11分20秒に坂口が木戸を体固め、2本目は試合タイムなしの猪木が試合放棄となり、2-0で坂口、S小林組がストレート勝ちをしています。
この大会は結果しか掲載されておらずノーテレビでゴング誌、プロレス誌とも1枚の写真も載っていません。
僅かに別冊ゴング76年9月号にアジア・リーグ戦の総括記事が掲載され、そこで簡潔に触れられています。
1本目は坂口がアトミックドロップから木戸を体固め、2本目が始まるまでのインターバルにタイガー・ジェット・シンがサーベルを持って乱入し猪木を襲撃、猪木はサーベルで滅多打ちにされて立ち上がれず。
そのまま控室に運ばれて試合放棄となった、というものでした。
当時の新日本では「よくあること」でしたが、猪木と坂口、S小林の前年のワールド・リーグ戦以来の対戦をどこのマスコミも注目しなかったのか?月刊誌時代とは言え、モノクログラビアに写真1枚載せられなかったのか?疑問は残りました。
少なくともリーグ戦の数少ない注目カードであったことは間違いないところですが、当時モハメド・アリと猪木の試合が酷評されたばかりで新日本もマスコミも元気がなかった時期であったことは確かと言えます。
78年4月21日、蔵前国技館のMSGシリーズ開幕戦での予選トーナメント1回戦、猪木と坂口の約3年ぶりのシングル対決はテレビ中継のある都内大会場での開催はある意味初めてのスッキリした形での大舞台における一騎討ちとなった訳です。
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