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2017年03月27日09:40

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台湾(その4)

台湾(その4)

第1章 日台交流の歴史(大航海時代まで)

第1節 阿多隼人(その3)

以上の通り、大和朝廷は、その守りのために、現在の和歌山県と奈良県の県境附近、つまり奈良県五條市と高取町附近に阿多隼人をおいたものと思われる。すなわち、阿多隼人は、外敵から大和朝廷を守るという重大な職務を負っていたのである。外敵とは、中国水軍であろう。私の考えでは、大和朝廷の防衛に阿多隼人を当たらせたのは藤原不比等の深慮遠謀によるもの」と思われる。藤原不比等は、中国水軍の朝鮮半島からの来襲の他に、福建省からの来襲を恐れていたのであろう。

なお、阿多隼人に端を発する薩摩隼人は、その呪力によって天皇をお守りしていたことが知られている。
「延喜式」巻28(隼人司)には、元日・即位・蕃客入朝などの大儀には、「大衣2人、番上隼人20人、今来隼人20人、白丁隼人132人が参加した」と記されてお り、遠従の駕行には、「大衣2人、番上隼人4人、今来隼人10人が供奉した」とあり、隼人の呪力が大和政権の支配者層に信じられ、利用されていたと見られ ている。井上辰雄らは、狗吠(犬の鳴き真似)行為や身につけている緋帛の肩巾(ひれ)や横刀が、悪霊を鎮める呪声であり、呪具であった事を明らかにしている。

日本はいうまでもなく邪馬台国の時代から大和朝廷の時代を通じて中国の朝貢国であった。しかし、大和朝廷の認識としては、南さつま市のあたりは、中国の領土ではないものの、中国の影響を強く受ける地域であり、中国軍の攻めてくる心配があった。

白村江の戦いに完敗した日本は北部九州と瀬戸内海沿岸の防備を図るが、さらに藤原不比等は、薩摩隼人の懐柔を図る。それによって、薩摩隼人が中国水軍と連合して大和に攻め上るという心配は無くなった。
しかし、薩摩隼人と福建省や台湾の人々との交流がなくなったわけではなかろう。私は交易目的の往来は続いていたものと思う。時代は流れ平安時代になると、にゃんにゃん(媽祖)信仰が日本にも及ぶことになる。




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