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2017年03月21日12:40

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台湾(その2)

台湾(その2)

第1章 日台交流の歴史(大航海時代まで)

第1節 阿多隼人(その1)

漢王朝の時代に中華文明が確立した。中華文明においては、王朝の直接統治する領土があり、その周縁に間接統治のいわゆる朝貢国が存在するという地域構造になっている。

今私は、台湾に焦点を当てて日本との繋がりを書こうとしているので、問題になるのは福建省である。北方や西方は別として、福建省、広東省、江西省で見る限り、中国の版図は、漢の時代に確立された。 秦の時代は、福建省、広東省、江西省地方の領土はまだ不安定であったのである。
沢史生の「閉ざされた神々」によると、中国の福建省から広東省の海岸に展開する海辺の民「蚤民族」は、もともと閔国(ビンコク、福建)の民だったが、秦の始皇帝によって蛮族として駆逐され、以後、海辺でかろうじて生息する賤民水上生活者として、実に21世紀に至る今日まで虐げられた底辺の生活を強いられてきたという。秦以降の歴代王朝もこの民族に対する「賤視差別政策」を中断することなく、彼らの陸での生活を決して許さなかった。したがって、彼らは常に海をさすらい、新天地を求めて島々を渡り歩き、遂に日本にも辿り着いたのである。その地が、南かごしま市である。これが世に言う「阿多族」であり、「阿多隼人」の祖先である。この 阿多隼人については、私の論文「邪馬台国と古代史の最新」の第7章第1節に書いた。そこにも書いたが、今ここでの文脈で私の考えの要点を申し述べておきたい。

藤原不比等は阿多隼人並びに海人族のネットワークを恐れると同時に、阿多隼人を直轄の臣下にすることによって、全國の「アタ族」を統括したのだと思う。その主なものは熊野水軍と伊豆水軍である。白村江の戦いで、我が水軍の総司令官を勤めたのが伊豆水軍の流れを汲む庵原氏である。そういうことを不比等は十分知っていて、熊野水軍や伊豆水軍を大事にしたのである。それは、熊野神社や伊豆山神社を朝廷が大切にあつかってきたのを見ても解る。伊豆山神社のその伝統は、鎌倉幕府まで続く。
そういうことを考えていると、私は、やはり日本は、海洋国家だなあと思う。阿多隼人の国、薩摩から、かの世界の名将東郷元帥が出たのも、当然のことだと思ったりする。

しかし、阿多隼人と大和朝廷との関係については、その論文に書かなかった。そこで、ここでは、阿多隼人と大和朝廷との関係について詳述しておきたい。






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