バーン・ガニアの持ち掛けた話は馬場にとっても願ったり叶ったりの話でした。
馬場のNWA内での発言力、政治力を持ってすれば鶴田を日本で1週間のレンタル・チャンプにすること位は朝飯前、と考えるのが普通ですが、馬場にとっては日本人のNWA世界ヘビー級王者は自分ただ一人でなければならないという強い執着がありました。
愛弟子と言いながらも馬場は鶴田に自分の日本プロレス時代の代名詞だったインターナショナル王座は譲っても、NWA世界ヘビー級のベルトだけは巻かせることはしませんでした。
鶴田もそれを口にする訳でもなく、それはわかっていたかと思います。
ならば、日本では世界2大メジャー王座として認知されているAWA世界ヘビー級王座戴冠、さらに馬場が成し得なかった世界王者としての北米サーキット。
これは快諾する以外の選択肢はなく、馬場はガニアの要望を受け入れ、バーター取引でNWAとの橋渡し役をやっています。
48年ロンドン五輪アマレス米国代表だったガニアには72年ミュンヘン五輪日本代表の鶴田の実績と実力は自身のプライドを十分に満足させるものでした。
84年2月23日、全日本プロレスの蔵前国技館で行われたAWA世界王者ニック・ボックウィンクルとインター王者鶴田とのダブル・タイトルマッチは鶴田がバックドロップホールドで勝ち、日本人初のAWA世界ヘビー級王者に。
3日後の2月26日、大阪府立体育会館での両者のリターンマッチ(こちらもダブル・タイトル戦)を両者リングアウトで切り抜けた鶴田はシリーズオフに世界王者として初の北米サーキットに出ました。
ブラックジャック・ランザ、ビル・ロビンソン、ジム・ブランゼル等の挑戦を退け防衛。
途中、グランド・チャンピオン・カーニバル参加の為帰国した鶴田は日本でニック、ブランゼル、グレッグ・ガニアを相手に防衛に成功した後、再び渡米。
バロン・フォン・ラシク、ニックとベルトを守り帰国直前の5月13日、ミネソタ州セントポール・シビックセンターでリック・マーテルが満を持しての挑戦。
勝負を賭けた鶴田がフライング・ボディシザースドロップ、これを受け止めたマーテルは体勢が崩れ、鶴田は首をトップロープにしたたかに打ち付ける、というお約束のアクシデントもしっかり織り込まれ、22分46秒、マーテルがダイビング・ボディアタックからの片エビ固めで勝利。
たった一度の鶴田への挑戦でマーテルはAWA世界ヘビー級王座を獲得。鶴田は3か月という任務を全うし王座から転落しました。
この辺りのエピソードは別連載「ジャンボ鶴田怪物伝説」でさらに詳しく書いていきます。
IWGP参戦をキャンセルしたマーテルは最強王者鶴田を倒しAWA世界ヘビー級王座戴冠いう大仕事をやってのけました。
この時期、NWAでは5月6日、テキサス州ダラス・テキサススタジアムで2月に日本で亡くなったデビット・フォン・エリックの追悼興行が行われ、デビットの実弟ケリーがリック・フレアーを破りNWA世界ヘビー級王者になっていました。(5月24日、全日本の横須賀市総合体育館でフレアーがケリーを破り奪回している)
84年は年の前半にNWA、AWA、WWFのいずれもが王者交代をしたという訳です。
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