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2016年05月23日09:00

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継体天皇の謎(その50)

継体天皇の謎(その50)

おわりに(4)

聖武天皇は、全国各地に国分寺と国分尼寺を建立し、仏教により国の「権威」というものを打ち立てた。その総本山が東大寺であり、大仏はまさに国家の精神的中心として建立されたものである。
巨像・る舎那仏にわが身を投影し、その存在を宣揚した聖武天皇は、仏教国家の範を聖徳太子に仰ぎ、白鳳の精神を伝統とする理想の君主国・日本の実 現を目指した英主であった。これは、中西進さん(大阪女子大学長)の見方である(中西進、「聖武天皇」、1998年、PHP研究所)。
しかし、中西さんも言っておられるように、一般的には、聖武天皇の評判は悪い。いちばん評判が悪いのは天平12年(740)から5年間、つぎつぎ と都をかえたことだ。それまで都は奈良にあったが、天平12年、藤原広嗣(ひろつぐ)という男が九州で反乱の兵を挙げると、天皇はただちに都を抜け出して 伊勢へゆき、そのまま奈良に帰らないで、恭仁(くに。今の京都府相楽郡加茂町)にとどまり、そこを都とした。のみならず、そののちも難波や紫香楽(しがら き)に行幸をくりかえした。「彷徨(ほうこう)5年」などという言葉もあり、聖武天皇はノイローゼになったのではないかという人も少なくない。杉本苑子さ んも、その著書「穢土荘厳(えどしょうごん)」(1986年、文芸春秋)では聖武天皇の精神状態を病的なものと捉えている。ノイローゼだったという訳だ。
私は、中西進さんと杉本苑子さんの中間的な見方をしている。中西さんが言うように、聖武天皇を白鳳の精神を伝統とする理想の君主国・日本の実現を 目指した英主というのはちょっと違うのではないかと思う。聖武天皇は、藤原氏の勢力と新興勢力・橘諸兄の間にあって苦労する。ノイローゼにならんばかりの 心労が多かったと思う。かといって・・・・・ノイローゼであったというのはちょっと言い過ぎではないか。
私の考えでは、「彷徨5年」というのは、ノイローゼの故に強行されたのではなくて、大仏建立の準備として東国を固める必要性から強行された。西国 は、大将軍・大野東人をもってして宇佐八幡に祈願せしめ、藤原広嗣の乱さえいち早く平定すればそれで充分だ。もともと西国は藤原氏の勢力の弱いところだ し、難波が西の抑えとして天皇の勢力下にある。それよりも東国を固めることだ。東国の固めは伊勢と尾張を抑えることだ。そして鎌倉を抑えることだ。
「彷徨5年」によって東国は固まった。いよいよ橘諸兄とともに恭仁(くに)での新しい都づくりだ。大仏建立はやむを得ないとしても、大仏建立の地 はいろいろと意見があったようだ。平城京と新都市・恭仁(くに)、或いは思い切って紫香楽(しがらき)がいいか。それとも難波が良いか。大仏建立そのもの に反対する意見も多く、侃々諤々議論が沸騰・・・・、なかなか結論がでない。早く決断しないと大仏建立そのものが立ち消えになる。何よりも始めることだ。 したがって、大仏建立の場所そのものについては必ずしも方針が定まらないまま、聖武天皇の思惑でとりあえず紫香楽(しがらき)で始めざるをえなかった。私 はそう考えている。やる気を示そう!・・・「石橋を叩いては渡れない!」・・・「ともかく始めることだ!」
この辺りの筋書きは良弁によるのではないかと私は考えている。良弁は、行基と相談の上、片方で大仏建立の地を平城京とすることで藤原氏を説得 し、・・・片方で・・・・大仏建立に対する藤原氏の全面的な協力を得るという条件で、大仏建立の地を平城京にすることをやっと橘諸兄に認めさしたのではな いか。私はそう考えている。そういう荒技をできるのは、良弁をおいて他にない。
良弁は、華厳宗の創始者である。華厳思想の究極は、法界縁起にあると言われたりする。その概念は、なかなか難しくてそう簡単に説明できないのであ るが、とりあえず判りやすく言ってしまえば・・・・、白と黒、善と悪・・・、まあそういった相対的なものを切り離して認識しないで、りょうりょう相まって というか、一見相対的と見えるものの関係性を重視する。一見矛盾するように見えるものについても双方の立場を尊重する。これは近代科学ではあり得ない認識 の仕方であるが、河合隼雄さんはそういう華厳思想というものに21世紀の可能性を見ておられる。私も、深いところは判らないまま、何となくそのように思わ れて、良弁、徳一、明恵などを勉強したいと考えている。華厳思想はすばらしい。その華厳宗の創始者である良弁が聖武天皇を導いた。そのことがない限り大仏 の建立はなかったであろう。そして、そのことがない限り、東大寺はできていなかったし、かの明恵は誕生しなかったのではないかと思えてならない。
聖武天皇と良弁は、行基という偉大な人を重用し、民衆のエネルギーを引き出しながら巨像・る舎那仏を建立し、国家の精神的支柱とした。権力は藤原 氏を中心とする官僚システムに委ねるが、権威は天皇を中心とした皇室に残す。そういう棲み分けを構想し、実現したのは良弁であろう。否、華厳思想のなさし める技ではなかったのか。私にはそう思えてならない。
貴族社会は、藤原氏を中心に成熟し、やがては武家社会へと移行していくのだが、その武家社会の源流においてふたたび華厳思想がその真価を発揮す る。明恵の「あるべきようわ」の思想である。それによって、権威に裏打ちされた貴族たちと・・・・権力に裏打ちされた武士たちの棲み分けが始まった。武家 社会の誕生である。


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