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2016年05月22日08:44

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継体天皇の謎(その49)

継体天皇の謎(その49)

おわりに(3)

聖武天皇が崩御した翌年に橘諸兄もなくなって、まったく政権は渾沌としていくのだが、その際、吉備真備の活躍によって何とか危機は回避できるのである。吉備真備は偉大な政治家である。聖武天皇が崩御したあと橘諸兄もなくなってからの混沌は、すでに先に書いたのでそれを見て欲しい。ここでは、聖武天皇のことを書く。書くといっても、中西進の名著「聖武天皇・・・巨大な夢を生きる」(1998年11月、PHP研究所)があるので、その要点をごくごくかいつまんで紹介するだけであるが・・・。
 
聖武天皇は、藤原広嗣(ひろつぐ)が聖武新体制に反対して、九州で反乱の兵を挙げる740年から5年間、つぎつぎと都をかえる。世にいう「彷徨5 年」である。聖武天皇は藤原広嗣(ひろつぐ)の反乱が原因でノイローゼになったという人もいたりして、聖武天皇は今の世の中の人にすこぶる評判が悪いので ある。しかし、中西進はそれは間違いであるという。私もそう思う。ただ、中西進は聖武天皇は「巨大な夢を生きた」のだというのに対し、私は、聖武天皇は 「夢を生きた」のではなく「現実の政治」を行なったのだと思う。先ほどもいったが、藤原の官僚ネットワーク組織が全国を支配する前に、何とかしなければな らない。それは、中臣神道を否定できない以上・・・又すべきでもないが、盧舎那仏(る しゃなぶつ)金銅像(大仏)の建立して、何とか神道と仏教の習合を図る・・・ということではないのか。神道は藤原に任せるとして、仏教は天皇自らがやろ う・・・、聖武天皇はそう考えたにちがいない。きっとそうだ。天皇として当然やるべき「揺りもどし」をやったのである。私はそこに歴史的必然性を感じる。 若干そのような違いはあるが、中西進と同じように・・・・、私は、聖武天皇を高く評価したい。
藤原広嗣(ひろつぐ)は、藤原宇合(ふ じわらのうまかい)の長男であり、新たな聖武体制の要である吉備真備と玄ぼうを天皇側近から除いて欲しいと上表した。同族としての甘えがあったのか、公私 混同もはなはだしい。新たな聖武体制の要である吉備真備と玄ぼうを天皇側近から除いて欲しいとび上表は、天皇に対する反逆である。聖武新体制として断じて これを許すわけにはいかないのである。上表文が奈良に届いたのが740年8月29日であり、聖武政権は、電光石火のごとく、9月3日にははや大野東人(おおのあずまびと)を大将軍として・・・1万7000の討伐軍を派遣させた。
このことに関して、中西進は、その著書「聖武天皇・・・巨大な夢を生きる」(1998年11月、PHP研究所)の中でこう述べている。
すなわち、『 真備はこう言っただろう。「ただちに、東海、東山、山陰、山陽、南海の各地の国司に激をとばして農兵を集めよ。大軍をもって威圧する必要がある。ついで在京の隼人を集めよ。彼らを味方にすることで九州の隼人の反抗心を柔げることができるだろう。あわせて隼人の心情について彼らの意見を参考にせよ。佐伯常人と阿部虫麻呂を勅使として加えよ。官軍としての色彩が明瞭になる。折しも新羅から帰国した遣新羅使の一行が長門にいるはずである。一行の中に人材があれば討伐の軍に加えよ。新しい戦略を知っているだろう。」』。
『 もうひとつ、真備の判断が働いた。都の情況が必ずしもわれに幸いしないことだ。陰に陽に、広嗣(ひろつぐ)の言い分に加担する者がいる。なにしろ藤原のネットはあなどりがたいものがある。ここはひとまず、天皇と藤原ネットとを隔離しておくべきだ。(中略)聖武の脳裏を、あの壬申の乱の時の天武天皇の吉野脱出が横切ったにちがいない。その故事にならうことが、わが身をふるい立たせた。事は急を要する。10月23日、行幸の次第を決定。26日、東国行を宣布。29日出発。行幸を守る兵は騎馬400。 』
『 天皇の前後をかこむ武官は御前長官が塩焼王、御後長官が石川王、前後の騎馬隊に号令した者は前騎兵大将軍が藤原仲麻呂、後騎兵大将軍が紀麻路 である。(中略)多くの藤原シンパが官僚の中にいた。反対に右の従駕者の中に藤原氏の者は仲麻呂ひとりしかいない。 』
『 聖武が徴用したのは渡来系の東西史部と秦氏との私兵集団であった。寄せ集めの混成軍団である。しかし、独特の伝統や生活様式をもつ精悍な騎馬 軍団に目をつけ、その機動力をもって一気に東国へとかけ抜けようとしたのである。機動軍団への注目、ここに聖武・真備ラインの鋭敏な感覚がある。  』・・・と。
 
まあ、すごいですね。すごい! 吉備真備はすごいの一言に尽きるのではないか。この藤原広嗣(ひろつぐ)の反乱のあと、橘諸兄と藤原仲麻呂との争いが表面化し、世にいう「彷徨5年」へとつづいていくのだが、ここでは、聖武天皇略年表(「彷徨5年」関連)と聖武天皇略年表(盧舎那仏建立関連) だけを紹介し、彷徨そのものについては述べない。ここでは、とりあえず、「聖武・真備ラインの鋭敏な感覚」というものを理解していただければそれで結構 だ。聖武天皇は、藤原広嗣(ひろつぐ)の反乱が原因でノイローゼになったというようなものではさらさらない。聖武天皇は、必死になって藤原一族と戦ってい るのである。聖武天皇が藤原であり藤原でない・・・・と私が言う所以である。
 
( 註:中西進の見方については、かって、「権威ということ」という題で少し書いたことがある。ここでの問題と関係があるので、参考に見て欲しい。http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kenni01.html )




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