mixiユーザー(id:33884029)

2015年07月31日09:21

248 view

山地拠点都市構想(その91)

山地拠点都市構想(その91)

第1章 山の魅力 第6節 町田 宗鳳の語る「山の魅力」(3)


(2)「山の神」との関係

1、いつ龍神が日本の山々に飛来したか、その答えを知っているのは、豊かな水の恵みを必要とする稲作農耕をはじめた人々である。(中略)山の神の進化は、オロチから龍神への変身にとどまらない。たとえば、柳田国雄は、「民俗学事典」に、サルやオオカミが山の神、あるいはその使者であると記しているが、(中略)やがてはクマ、シカ、ウサギ、イノシシ、タヌキ、イタチなども、山の神の姿として理解されるようになった。

2、「山の神」(言叢社)は、ネリー・ナウマンというドイツの民俗学者が、1960年代に大量の資料を集めながら著した貴重な民俗誌である。その中で、愛知県北設楽郡の慣習が紹介されているが、地元の人たちはイノシシが泥浴びをする場所であるノバタを、山の神のいますところとして神聖視したそうである。

3、新潟県中頸城郡春日村(現上越市)では、「狼送り」という風習があった。

4、荒々しい山の神を自分たちの側に引き寄せたのは誰かといえば、猟師、木こり、炭焼き、木地師、タタラ師、石工、杜氏などの山麓に居住し、自分の生業に山との直接的な関わりを持つ山の民たちである。つまり彼らは、狩人の神、木こりの神、木地師の神、炭焼きの神、タタラの神などの職能神として山の神を拝むことになったのである。

5、稲作農業が定着するようになると、こんどは農民たちは山の神を田の神として変身させ、平地に立派な神社を建て、今日の神道に繋がる道筋を開いたことになる。この山の神が田の神に変身していくプロセスをビジュアルに見せてくれる山のひとつが、秋田県の田代岳(1178m)である。

6、網野喜彦が指摘しているように、いわゆる百姓という言葉は、けっして農民と同義ではなく、そこには漁師や回船業など、さまざまな生業を持った非農業民も含まれている。集落が拡大するにつれ、行商、店子(たなこ)、大工、職工など数限りない専門的職業が発生したのであり、それはとりおなおさず、地上に存在する職業の数だけ、職能神が増えたことを意味する。そして遂に八百万(やおよろず)の神々といわれるまでに、日本人は多種多様の神を崇めるに至った訳でだが、それらの神々が最初に出会ったのが、山という神話的空間にほかならなかった。

7、弥生時代になると、コメを育てることに命をかけていた農民にとって、水の確保と太陽の動きが何よりも大きな関心事であった。そこに水分(みくまり)信仰と太陽信仰を二本立てと山岳観が発生することになった。平地に定住することになった彼らは、自分たちのムラからあまり遠くないところにあるいちばん高い山を、水と太陽の光をもたらしてくれる神々の住処(すみか)と定め、それを遥拝(ようはい)した。

8、漁師がなぜ山とのかかわりあいをもったのであろうか。そんな疑問を抱いたのは、那智大社のすぐ隣にある青岸渡寺(せいがんどじ)に、立派な大漁旗が奉納されているのを見たときである。

9、実は海に生きる人びとも、山と海とが有機的に結びついてることを経験則から知っていたのである。(中略)山の体液ともいえる川が、広葉樹林で培養された栄養素を海へと運び、近海に豊かな魚介類を呼び寄せる訳だ。




0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する