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2026年10月08日08:59

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【配信連動企画】昭和プロレス年史外伝��1976年の新日本プロレス(8)

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76年3月25日(現地時間)ニューヨークのプラザホテルにおいてプロボクシングWBA&WBC統一世界ヘビー級王者モハメド・アリと日本のプロレスリングNWF世界ヘビー級王者アントニオ猪木のワールド・マーシャルアーツ・ヘビーウェイト・チャンピオンシップの調印式が行われています。

公表されたアリのファイトマネーは約600万ドル(約18億円、1ドル300円試算)、猪木は約200万ドル(約6億円)。猪木はアリの1/3のファイトマネーであるが、興行の収益、及び全米で放送が予定されているクローズド・サーキット(有料による衛星生中継、今で言うところのライブビューイングに近いシステム)の収益が入り、最終的にはアリとほぼ同等の金額が入る仕組みとの説明がありました。

アリ側はアリのプロボクシングの興行権を持つトップランク社のボブ・アラム、リンカーン・プロモーションのロナルド・ホームズらが出席。

猪木側は猪木の他に猪木夫人である(当時)倍賞美津子さん、新間寿営業本部長、坂口征二副社長、NET(テレビ朝日)常務取締役辻井博(後の新日本プロレス代表取締役会長)、通訳としてケン田島が同行。

浅い紺色のシャツに同色のズボンとアリは本当にスタイリッシュに決めていてお世辞抜きに世界のスーパースターらしい雰囲気。

対する猪木は黒の紋付き袴スタイルで登場、まさに日本の侍を彷彿とさせる和を基調にした正装で登場。

91年、UWFインターナショナルの高田延彦がトレバー・バービックとの一戦を前にモチーフとしたあのスタイルです。

アリは冒頭、「俺は600万ドルではこの試合をやらない、ギャラを上乗せしろ!」とアピールし調印式の緊張感が一気に高まりました。

猪木を見るや、「おい、ペリカン野郎!本気で俺と試合をする気か?お前はクレイジーだ。お前の長い顎に俺のパンチがちょっとでもかすったらあの世行きだ!やめるんなら今だぞ」と早くも先制「口撃」。

アリのスポーツマンシップとは真逆の対戦相手をこきおろすマイクアピールはプロレスラーのゴージャス・ジョージ、フレッド・ブラッシーのマイクを見て研究されたもので、アリは実はプロレスが大好きでした。

プロスポーツとしてのショーマンシップを60年代に取り入れたアリのマイクは対戦相手を動物に例えることで有名で、長い顎がトレードマークの猪木は「ペリカン」。

600万ドルを拠出するだけでも大変なのにここへ来てアリはファイトマネーの上乗せを要求。

しかし、猪木について来た美津子さんを見るや途端に格好を崩し、

「そこにいる美しい女性は誰だ!?猪木のワイフだって?醜いペリカン野郎によくこんな美しい女性がワイフについたもんだ。美しいワイフに免じて600万ドルではやらないが、610万ドルで負けてやる、ただし、俺が勝ったらお前のワイフは俺がもらうぞ!」と美津子さんの笑顔に負けた?アリは610万ドルで承諾しました。

猪木はモハメド・アリの挑発に対し、ずっと微笑みを絶やさず、沈黙を保ったまま。

黙り続ける猪木にアリは痺れを切らしたか猪木に向けて再び舌鋒を向けました。

「おい、ペリカン野郎!何で黙ってるんだ。何なら今ここでやってもいいんだぞっ!」

ようやくここで猪木が口を開きました。「私は口では闘わない。アリは日本語では蟻を現す。小さな蟻を握り潰して勝つ」とコメント。

アリは通訳のケン田島がどう伝えたかはわからないですが、「今、俺のことをニガー(黒人を蔑視する表現、日本人ではジャップがこれに近い)と言ったなっ!ペリカン野郎、ぶっ殺してやる」と椅子から立ち上がって猪木に襲いかかりましたが慌てて側近が止めに入りました。

全ては計算され尽くしたアリのパフォーマンス。当時の報道では「弱い犬ほどよく吠える」的な揶揄で、桜井さんもアリの口撃に対し挑発に乗らず冷静に対応した猪木が口頭での前哨戦を制した、という論調で記事を書かれています。

しかし、アリは猪木に限らず対戦相手の誰に対しても似たような挑発パフォーマンスを見せ、多彩なショーマンシップで調印式を大いに盛り上げました。

猪木は日本国内で、特に馬場に向けてのマスコミ相手の発言では非常に饒舌になりますが、この時はプロスポーツ界のキング・オブ・キングスである世界のアリと同じ土俵で舌戦をやらず、ミステリアスな東洋人キャラクターを貫いて正解だったと思います。

この調印式の模様は76年3月26日のワールドプロレスリング内で放送されました。

ちょうどこの時期に前75年12月11日に蔵前国技館で猪木と60分時間切れ引き分けの名勝負を展開したビル・ロビンソンが新日本プロレスに再来日すべく新間と交渉を行っていました。

ロビンソンは72年にイギリスからアメリカに渡り、日本で主戦場にしていた国際プロレスの橋渡しもありバーン・ガニアのAWAと契約し試合をしていました。

74年11月にはガニアと共に国際に来日し、11月20日、蔵前でガニアのAWA世界ヘビー級王座に挑戦、1-1からガニアのバックドロップが崩れての両者カウントアウトの引き分けになっています。

ロビンソンはAWAの本拠地と言われたミネソタ州のミネトンカ湖畔に住居を構えていましたが11月8日のミネソタ州セントポール・シビックセンターでのキム・ドク(タイガー戸口)との試合を最後にAWAとの契約を終了しました。

ドク戦は猪木を意識した卍固めで勝ちました。(東スポとゴングでそのように報道しましたが後にGスピリッツのインタビューでドクはこれを否定、ロビンソンの反則勝ちというのがその後の見解)メインイベントではガニアvsニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級選手権試合。

ニックのマネージャー、ボビー・ヒーナンの介入はありましたが18分43秒、ガニアがニックにフォール負けし王座転落。次期AWA世界王者とずっと言われ続けて来たロビンソンはガニアが自分よりヒールのニックを後釜に選んだことでAWAを去ることにしました。

ロビンソンは11月17日(現地時間)ニューヨークMSGに初出場しジョニー・ロッズをワンハンド・バックブリーカーで撃破、その後12月4日の大阪府立体育会館から新日本プロレスに初登場。

国際時代に何度も対戦したストロング小林を人間風車で破ったロビンソンは猪木と歴史に残る名勝負をやってのけました。

誰もが再戦を期待しましたが、この時新間氏の頭の中はアリ戦の資金繰りのことで一杯。どうしても600万ドルも調達しなければ猪木に恥をかかせることになる。

「前回よりギャラは出せなくなる」

外国人に関してはシビアな猪木、新間氏はロビンソンのギャラを値切って来ました。

新日本から帰国した後、フロリダで試合をしていましたが、当時フロリダでブッカーをしていたのがドリー・ファンク・ジュニア。これは運命の巡り合わせとしか言い様がありません。

ロビンソンはドリーにコンタクトを取りました。「オールジャパンに売り込んでくれないか、シンマにギャラをディスカウントされた。二度とニュージャパンには行きたくない。」

ジャイアント馬場はインバウンド(先方からの売込み案件)で超大物を獲得。ギャラはおそらくロビンソンの条件を飲んだと思いますがその交換条件はもはや言うまでもないでしょう。

歴史的名勝負から僅か半年でロビンソンは馬場のもとへ。これもアリvs猪木戦がもたらした運命のいたずらでした。
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