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2024年12月08日07:59

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【特別編】マイティ井上さん追悼(10)

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78年11月17日新日本プロレス「プレ日本選手権」開幕戦の後楽園ホールでストロング小林が記者会見を行いシリーズ開催中である国際プロレスの「日本リーグ争覇戦」の11月25日蔵前国技館大会に出場表明をしています。

11月19日付(18日発行)の「東京スポーツ」より引用。
『新日本プロレス「プレ日本選手権」開幕の17日、東京・後楽園ホールの控室でストロング小林が急拠、記者会見を行い国際プロレス主催「日本リーグ争覇戦」蔵前大会(25日)に新日プロの選手として参加したいとの申し入れを国際プロレス社長の吉原功氏に行うと発表した。

「今日(こんにち)、私があるのは吉原社長のおかげと常日頃から感謝している。一時は誤解もあったが、今は何のわだかまりもありません。吉原社長のプロレス生活25周年の記念行事に少しでも恩返しをしたいので出場の申し入れを行う。西ドイツにいる猪木さんにも了解を得ているので、是非実現させたい。」(S小林)

プレ日本選手権参加中の小林本人のスケジュールもあり、一試合のみの出場だがもし小林が日本リーグ争覇戦に参加すれば"統一日本選手権"へ大きな前進といえる。なお、S小林に新日プロの若手のホープ、小林邦昭が同行する。

吉原社長の話「エッ!小林君が…。小林君がそういう気持ちなら、私の方に拒む理由はない。喜んで歓迎する。あれからどれくらい成長しているかそれも見たいし、ぜひうちのリングで試合をしてもらいたい。今は全く私と彼との間には何のわだかまりもない。対戦相手はこれから検討していく。小林君の申し出を受け入れ、バックアップしてくれた新日本プロに対し感謝している。」』

S小林は、国際のエースとしてIWA世界ヘビー級王座に君臨しておりましたが、74年2月、国際プロレス離脱を表明。

馬場と猪木に挑戦状を叩き付け、猪木がこれを受けて立ち3月19日、蔵前国技館で日本人大物対決が行われ、猪木が「首で支えるジャーマン」でS小林をフォールしていますが、実際は、マッチメーカーであるグレート草津との確執、国際プロレスの金銭面での処遇、マッチメークに対し不満を示していたS小林に対し、新日本プロレスが引き抜きの手を伸ばしたもので、S小林と国際プロレスとの間にあった契約書をめぐってトラブルが発生。

この大会の主催者である東京スポーツ新聞社の井上博社長の英断で移籍金1,000万円を国際プロレスに支払い、この一戦を実現させた経緯があり、S小林と国際との関係は最悪となりました。

それから4年9か月、S小林の国際へのゲスト参戦は大きな話題を呼び、新日本プロレスと国際プロレスとの提携がいよいよ動き出しました。

この一件は、元国際プロレスのエースだったS小林を使っての全日本プロレスと国際プロレスの蜜月関係を悪化させ、一気に国際プロレスを取り込み、日本プロレス界の勢力分布図を塗り替えて最終的には使い潰そうとする新日本プロレスの作戦だったと言えます。

「プレ日本選手権」に参加したフリーのヒール集団「狼軍団」のマサ齋藤を除く4人はいずれも国際プロレスとは深い因縁を持つフリーレスラーばかりというのも単なる偶然ではないと思われます。

井上はS小林に関しては非常に辛辣な言葉を浴びせていました。

2022年1月8日の「Web東スポ」はS小林の訃報が報じられた翌日の配信でしたが、そこから一部を抜粋、引用してみたいと思います。

井上氏は、今回の訃報に「もともと具合が悪いと聞いたけれど『お疲れさまでした』という気持ちですね。肺を悪くしたと聞いてますけど、若いころは肺が強くて、肺活量がすごかったんです。8,000ccとか9,000ccあって。だから驚きました」その上で若手時代をこう振り返った。

「最初は一緒に国際プロレスの合宿所に入ったんですよ。六畳のアパートを2部屋借りていて。当時私は大阪から来たばかりだったから、彼の東京の言葉を聞いて『東京の人間は優しい言葉でしゃべるなあ』と思ったのを覚えていますよ。気の小さい男で、あんな大それたことをすると思わなかった(苦笑)」

�狢腓修譴燭海鉢瓩箸�74年に勃発した新日本プロレスへの移籍騒動のこと。突如、小林さんが国際プロレスに辞表を提出して「引き抜き騒動」に発展し、一時的に東京スポーツ所属レスラーになるなどした後、新日本で活躍した。

この電撃移籍以降、ほとんど会話もかわさなかったという井上氏。「最後にあの真相を聞きたかったなあ。『なんで新日本に行ったの?』『いくらもらったんだ!』って」と寂しげに笑った。

また、2024年12月4日配信された「Number Web」の追悼記事では「あいつは、自分のことしか考えてなかった。(グレート)草津のおっさんといろいろあったにせよ、カネに目がくらんだ結果だったからね。裏切りですよ。彼は自分ひとりの力で国際のチャンピオンになったわけじゃない。(ラッシャー)木村さんやハマ(アニマル浜口)あたりは何も言わないけど、ボクはこうして自分の言葉でハッキリ言いますよ。でも新聞や雑誌は書いてくれないんだ。誰に遠慮しているのか分からんけどね」

ストロング小林が新日本に移籍した一件の背景には、待遇面のほか、国際プロレスの同僚だったグレート草津との確執があったとされる。プロがよりよい条件を求めて動くことは決して否定されるものではないが、義理人情を重んじる昔気質の井上さんは、結果として団体衰退に至る引き金となったストロング小林の電撃移籍を最後まで容認しなかった。

とS小林に対しては最後まで手厳しい言葉を並べて生涯許すことはありませんでした。

井上は「Gスピリッツ」を始め複数の媒体でS小林に関してはよく言っているのは一つもなく罵詈雑言の嵐ですがまとめると以下のようになります。

「国際プロレスのエースだったS小林が国際を飛び出して猪木のところに行き、負けたことで、世間的には『国際は新日本より弱い』というイメージが定着してしまった。残された人間のことを何も考えていない。自分だけ大金もらっていい思いをしやがって」と。

11月25日国際プロレス「日本リーグ争覇戦」蔵前国技館大会に、新日本プロレスからS小林と小林邦昭が出場しました。

蔵前大会では、S小林はフリーのミスター・ヒトとシングルマッチ30分1本勝負で対戦。全日本プロレスとは何らしがらみがない相手であり無難な人選だったでしょう。

この試合はテレビ撮りはありませんが、2007年にポニーキャニオンより発売されたDVD−BOX「不滅の国際プロレス」(竹内宏介、流智美監修)の中に竹内氏所有の8ミリビデオで撮影されたダイジェスト版映像が収録されており、現在も購入・視聴可能です。

S小林のアトミックドロップでヒトが場外転落、これをS小林が追いかけ場外乱闘となりました。ヒトがヘッドバット3連発でS小林を倒し、リングへ戻ろうとします。

背後からヒトのタイツを掴んで妨害しようとしたS小林にヒトがキック、場外でダウンしたS小林めがけてヒトはエプロンからニードロップ、しかしこれを読んでいたS小林がかわしてリングへ生還、15分59秒にS小林がリングアウト勝ちを飾りました。

日本リーグ争覇戦決勝トーナメント準々決勝、井上vs鶴田の45分1本勝負が行われ、この試合は日本テレビ「全日本プロレス中継」で生放送されています。

鶴田は決勝トーナメント開催に先駆け、11月17日大阪府立体育会館からシリーズ参戦をしていますが、大阪ではロッキー羽田と組み、草津&井上組とタッグマッチ30分1本勝負で対戦、井上がバックドロップからの体固めで羽田を破り、前哨戦は井上が制しています。

試合は井上は鶴田のバックにまわりロープへ押し込んで後方回転エビ固め。しかし鶴田はロープを掴んで井上を自爆させ、井上が立ち上がろうとしたところへジャンプ一番、飛びついての前方回転エビ固めを決め16分38秒、カウント3が入り、鶴田のフォール勝ち。

メインイベントの決勝トーナメント準々決勝45分1本勝負、R木村とキム・ドクの一戦は11月27日の午後8時から東京12チャンネル「国際プロレスアワー」で録画中継されました。

試合前にS小林がリングに上がり、R木村とドクに激励の握手を行おうとしましたが、ヒールとして国際プロレスのリングに上がっていたドクは握手する手を振り払ってこれを拒絶。4年10か月ぶりに同じリングで再会したR木村は仏頂面でこれに応じています。

ドクがR木村を場外に落とし場外乱闘に。殴り合いからR木村は場外でドリルアホール・パイルドライバーを決めてリング内へ、ドクはリングに飛び込んだものの間に合わず、12分33秒、R木村のリングアウト勝ちとなりました。

井上vs鶴田戦に関しては、鶴田は全日本プロレスの他に日本テレビとも専属契約を結んでおり、東京12チャンネルは鶴田の試合をフル尺では放送出来ず。苦肉の策として、国際プロレスアワーの中継陣は国技館の支度部屋にあるモニターで井上vs鶴田戦を観戦しながら解説するという手法でどうにか放送することが出来ましたが、テレビ局の力の差を見せつけられた感じでした。

この日、S小林に帯同した新日本プロレスの若手のホープ、小林邦は国際プロレスのベテラン、寺西勇とシングルマッチ30分1本勝負で対戦。10分18秒、寺西がジャーマン・スープレックスホールドでフォール勝ち。小林邦と寺西はこの5年後の83年には新日本プロレスのリングで「打倒タイガーマスク」で結託し、さらにその翌年の84年にはジャパンプロレスで行動を共にすることになります。

11月26日岩手県久慈市民体育館での決勝トーナメント準々決勝ではミスター・サクラダとプロフェッサー・タナカが対戦、タナカの凶器攻撃に怒ったサクラダが凶器を奪い反撃、さらに制止に入ったレフェリーにも凶器攻撃を加え、タナカの反則勝ち。

11月27日青森県黒石市中央スポーツ会館で行われたディーン・ホーと石川孝志による決勝トーナメント準々決勝、場外でホーをヘッドロックに捕らえ鉄柱に叩きつけようとしましたがホーがこれをかわし石川は鉄柱に激突してダウン、リングに戻れすホーのリングアウト勝ち。

ベスト4はR木村、鶴田、タナカ、ホーとなり11月28日山形県鶴岡市体育館で行われ決勝トーナメント準決勝では、R木村がホーをブルドッキング・ヘッドロックからドリルアホール・パイルドライバーを決めて体固めで破り、鶴田はタナカの凶器を奪って攻撃を続けて反則負けを喫し、優勝決定戦進出は成らず。

シリーズ最終戦、11月30日千葉公園体育館で優勝決定戦が行われR木村とタナカが60分1本勝負で対戦。11分5秒、バックドロップからの片エビ固めでR木村がタナカにフォール勝ちし優勝を果たしました。

吉原社長は「木村はよく頑張ってくれた。同時期に行われている新日本プロレスのプレ日本選手権の優勝者と木村を対戦させたい」とコメント。72年10月の「旗揚げジャイアント・シリーズ」に日本人レスラー不足で試合数が組めない馬場に選手を貸出してからスタートした全日本プロレスとの6年に亘る提携にピリオドが打たれ、国際プロレスは日本でのビジネスパートナーを新日本プロレスに変更していくことになります。

これは国際プロレスが「パンドラの箱」を開けてしまったことを意味しました。S小林の「恩返しの友情出場」では終わらせないのが新日本プロレスのやり方…。

12月14日新日本プロレスの「プレ日本選手権」大阪府立体育会館大会のインターバルの間にメインイベントのボブ・バックランドvs猪木のWWWFベスト選手権試合の立会人として来日したNWA第一副会長、マイク・ラベールと共に国際プロレスの吉原功社長が初めて新日本プロレスのリングに上がり、新間寿マネージャー(モハメド・アリ戦の借金の責任で営業本部から降格)から紹介を受けています。

吉原社長はアニマル浜口を連れてきており、吉原社長は改めて「日本リーグ争覇戦」の優勝者であるR木村とプレ日本選手権の優勝者を対戦させ、真の統一日本選手権に向けて尽力したいとコメント。

新日本プロレスの12月16日の蔵前国技館大会に国際プロレス所属である浜口と寺西勇を送り込むと発表しています。

新日本プロレス「プレ日本選手権」最終戦、12月16日、蔵前国技館では試合前に大阪大会に続き吉原社長が、日本リーグ争覇戦優勝者でありIWA世界ヘビー級王者のR木村と、前77年11月、ラグビー界からプロレス入りし、6月26日、大阪府立体育会館での寺西戦(15分時間切れ引き分け)でデビューした後、半年間のカナダ武者修行を終えて凱旋帰国した原進(阿修羅・原)を引き連れてリングに上がり新日本プロレスのファンに挨拶しています。 

R木村が新日本プロレスのリングに最初に上がったのは81年9月23日、田園コロシアムでの「こんばんは」の一件の時ではなく、この時が初でした。

セミ前に組まれた新日本プロレスと国際プロレスの対抗戦、浜口&寺西組を迎え打ったのは新日本プロレスの実力者チーム、長州力&木戸修組。注目の一戦は30分時間切れ引き分けとなりました。急に決まった為、テレビ朝日と東京12チャンネルの間で話がつかなかったか、テレビ放送はされませんでしたが、翌79年4月に公開された松竹配給、富士映画、三共映画制作「激突!格闘技 四角いジャングル」に収録されており、DVDや配信で現在も視聴可能です。

メインイベントのプレ日本選手権優勝決定戦60分1本勝負、猪木とヒロ・マツダの一戦は23分6秒、猪木がマツダをギブアップさせて優勝を果たしています。

翌79年からは国際プロレスと新日本プロレスが提携することになりますが、新日本プロレス嫌い、猪木嫌いの井上はこの事態をどのように受け止めていたのでしょうか…?
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