75年新日本プロレス「第2回ワールド・リーグ戦」は外国人選手が弱体でしたが、猪木、坂口征二、ストロング小林、大木金太郎の日本人4強に、キラー・カール・クラップを入れた5人の争いで終盤大きな盛り上がりを見せました。
逆に予定通り「カナダの荒法師」ジン・キニスキーが参加し外国人選手が豪華であればこれほど盛り上がったかわからず、坂口vs大木の遺恨試合も本人同士の感情(特に坂口)は置いておき、観客を熱狂させています。
そのキニスキーを招聘した全日本プロレスの同時期開催の春の祭典「第3回チャンピオン・カーニバル」と新日本プロレスの「第2回ワールド・リーグ戦」の興行戦争について書いておきます。
全日本プロレスの「第3回チャンピオン・カーニバル」は4月5日、船橋ヘルスセンターローラースケート場で開幕。趣旨は「チャンピオンの祭典」であり、この年も第1、2回に倣ってトーナメントによる優勝争いとタイトルマッチラッシュの2本建て形式で行われました。
序盤戦には「生傷男」ディック・ザ・ブルーザーが特別参加。ブルーザーは全日本プロレス初参戦で2月6日、カンザス州カンザスシティ・メモリアルホールで馬場のPWFヘビー級王座に挑戦、3本目反則負けとなり、馬場との決着をつけるべく来日。
4月10日、仙台・宮城県スポーツセンターでブルーザーはPWFヘビー級王座に挑戦、馬場はブルーザーの凶器攻撃で額から大流血。1本目は6分43秒、馬場の反則勝ち、しかし2本目、ブルーザーが持ち出した麻縄を馬場が奪い返して反撃、3分46秒、馬場が暴走しての反則負け、決勝の3本目は1分40秒、馬場が32文ロケット砲からエビ固めに決めて2−1で日本プロレス時代からの怨敵であるブルーザーを破って27度目のタイトル防衛に成功しました。
当時、「馬場はラフファイトに弱い」と言われており、それを覆すような暴れっぷりを見せています。
優勝争いのトーナメントですが、第1、2回大会はPWF(世界)ヘビー級王者である馬場は1回戦をシードされていましたが、「王者の特権か」と批判の声も強く、この年は1回戦から出場。
また、この年は敗者復活を含めてトーナメントをABCD4ブロックに分け、ベスト4に進出出来れば、ベスト4による総当たりの決勝リーグ戦が行われることとなり、ジャンボ鶴田の活躍次第では、「決勝リーグ戦で馬場vs鶴田戦もあり得る」とし、過去2回大会よりは「勝負してる感」を少し全面に押し出しています。
馬場はAブロックから出場。1回戦でマーク・ルーイン、2回戦でキラー・コワルスキーを再試合の末破って決勝リーグ戦に進出。トーナメント本戦参加のキニスキーは4月13日、山形県酒田市営体育館から鶴田と同じCブロックから出場、1回戦で大熊元司、2回戦で鶴田を破って決勝リーグ戦進出。
もう1つのBブロックはザ・デストロイヤーがマイク・ジョージ、高千穂明久を破って決勝リーグ戦進出。デストロイヤーは対戦相手に恵まれました。
ABCの3つのブロックのうち、2回戦で敗れたコワルスキー、高千穂、鶴田の3人による敗者復活戦は3人の総当たりで行われ、コワルスキーにリングアウト勝ち、高千穂に回転エビ固めでフォール勝ちした鶴田が敗者復活戦を勝ち抜いてDブロックへ。
しかし、Dブロックには前年度準優勝者、強敵ミスター・レスリング(ティム・ウッズ)が待ち受けており、レスリングはサムソン・クツワダにフォール勝ち、鶴田にリングアウト勝ちで決勝リーグ戦進出。結局、鶴田敗退で馬場vs鶴田戦は実現しませんでした。
ベスト4は馬場、キニスキー、デストロイヤー、レスリングとなり、馬場とキニスキーがデストロイヤーとレスリングを連破、2勝ずつを挙げて優勝決定戦進出が確定。
5月1日、岡山武道館ではデストロイヤーとレスリングによる3位決定戦が、覆面世界一決定戦十番勝負第6戦として行われ(30分1本勝負)、27分2秒、首固めでデストロイヤーが勝利。3位が確定しています。
優勝決定戦は5月3日、和歌山県立体育館で行なわれ、馬場vsキニスキーが60分3本勝負で対戦、2−1で馬場が勝ち3連覇を達成しました。
話は前後しますが、4月19日、福島県郡山市総合体育館ではキニスキー&コワルスキー組という馬場の宿敵同士がタッグを組んで馬場&鶴田組のインターナショナル・タッグ王座に挑戦、2−1で馬場&鶴田組が3度目の王座防衛に成功しています。
キニスキーは和歌山大会での優勝決定戦が終わると帰国、入れ替わりに終盤戦にはWWWFヘビー級王者、「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノが特別参加。
サンマルチノは5月6日、岐阜市民センターでコワルスキーと組んで馬場&鶴田組のインターナショナル・タッグ王座に挑戦。コワルスキーはパートナーを変えての2回連続挑戦でしたが2−1で馬場&鶴田組が4度目の王座防衛を果たしました。
シリーズ最終戦、5月9日、日大講堂ではサンマルチノがWWWFヘビー級王座を、馬場がPWFヘビー級王座を賭けてのダブル・タイトルマッチが実現。
サンマルチノは日本プロレス時代の67年3月の初来日、68年8月の再来日の時は現役のWWWF世界ヘビー級王者でしたが、馬場との試合にはWWWFのベルトは賭けられず、いずれもサンマルチノが馬場のインターナショナル王座に挑戦しています。
しかし71年1月18日にニューヨーク・MSGでイワン・コロフに敗れてから、同年11月の日本プロレスへの最後の来日、馬場が72年10月に全日本プロレスを旗揚げしてからの、同月の「旗揚げジャイアント・シリーズ」、翌73年2月の「ジャイアント・シリーズ結集戦」への2度の来日はいずれも無冠。
73年12月10日、MSGでスタン・スタージャックを破り2年11か月ぶりに王座返り咲きを果たしてからは初の全日本プロレス参戦となり、日本初のWWWFヘビー級選手権試合が実現。試合は1−1から両者リングアウトの引き分けとなり、共にタイトル防衛に成功しています。馬場は28度目の防衛。
サンマルチノを招聘しての日本初のWWWFヘビー級選手権試合の開催はビンス・マクマホン・シニアを外国人招聘窓口のブッカーにした新日本プロレスに対する牽制であり、サンマルチノと馬場のアメリカ武者修行時代からの信頼関係を強調しました。
「いくら新日本プロレスとマクマホンが提携関係にあろうと、サンマルチノが王者でいる限りは新日本プロレスのリングでWWWFヘビー級選手権試合は開催出来ない」という馬場の対抗意識が見て取れました。
さて、新日本プロレスの「第2回ワールド・リーグ戦」との興行戦争ですが、ニアミスで会場が被ったのは3大会ありました。
和歌山県立体育館が先攻が新日本プロレスの4月19日が4,500人満員発表、後攻の全日本プロレスは5月3日に優勝決定戦を持ってきて、こちらは6,000人超満員発表で全日本プロレスの勝利。
岡山武道館は先攻が全日本プロレスの5月1日で3,500人発表。後攻が新日本プロレスの5月14日で3,900人発表、僅差で新日本プロレスが上回りましたが、水増し等も勘案すれば互角のドローと言っていいでしょう。
問題は最終戦の日大講堂、全日本プロレスの5月9日は2,500人発表、新日本プロレスの5月16日は8,500人超満員発表とトリプルスコア差以上で新日本プロレスの圧勝になりましたが、5月9日は国鉄のゼネラルストライキがあり、首都圏の国鉄が終日ストップ。(翌10日も)日大講堂の最寄り駅である両国は当時総武線各駅停車しかなく、観客が会場に足を運ぶことは困難を極め、ほぼ不可能。実際に来場したのは500〜600人位でした。
前売チケットは発売されており、テレビ収録に穴を開ける訳にいかず、中止には出来なかった事情があり、馬場と全日本プロレスには気の毒という他はなかったです。
ただ仮に交通ゼネストがなかったとしても、6,000人前後の発表だったと予想され、どちらにしても新日本プロレスの勝利は動かなかったと考えられます。
「馬場と日本プロレス時代にインターナショナル王座を賭けて対戦した大物外国人とのPWFヘビー級王座を賭けた焼き直し対戦」は地方はまだ集客の余地がありましたが、5〜10年位前と同じ組み合わせではもはや東京の1万人収容規模のハコは埋められないのが現実でした。
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