新日本プロレス越谷市体育館の2,200人満員発表はかなり水増しした数字かと思います。私はこの時はUWFの後楽園ホール大会を観戦し新日本プロレスはビデオ録画して後日見ました。全日本プロレスの横浜文化体育館は翌10月6日のテレビ放送を見ました。
観戦したUWFは3,000人(超満員発表)でしたが立見までギッシリ満員、全日本プロレスもテレビで客席を見る限り、昭和の時代は集客が厳しかった横浜文化体育館は満員でしたが、新日本プロレスの越谷は空席もありました。
私が観戦したUWFですが、この日試合前に旗揚げメンバーであったラッシャー木村と剛竜馬が「プロレスに対する方向性の違い」を理由に退団したことを発表しています。
R木村と剛は国際プロレス時代の先輩後輩にあたり、剛は78年4月に国際を退団、フリー宣言してフロリダのヒロ・マツダの元へ行き新日本プロレスの藤波に挑戦を宣言。79年10月2日には大阪府立体育会館で藤波を破りWWFジュニア・ヘビー級王座を獲得するものの2日後の10月4日、蔵前国技館での藤波とのリターンマッチに敗れ王座転落。二日天下に終わりました。80年4月に新日本プロレスに入団、84年1月の新春黄金シリーズ途中に欠場しUWF旗揚げメンバーに。
R木村は81年8月の国際プロレス崩壊後、アニマル浜口、寺西勇と共に国際軍団として新日本プロレスに参戦しましたが、84年3月2日、綾瀬市体育館でのビッグ・ファイト・シリーズ第2弾開幕戦を無断欠場しUWF旗揚げメンバーになりました。
UWFは藤原喜明、スーパー・タイガー、高田伸彦らの加入で格闘技色の強いプロレスに変化しており、先の「ビクトリー・ウィークス」でもR木村と剛はタッグを結成して外国人選手との対戦が中心でした。
当時はまだ外国人選手がいないと興行が成り立たない時代でもありましたのでR木村と剛はシリーズオフにカナダに渡りマリタイム地区のモントリオールを中心に国際プロレスに来日経験のある外国人選手をブッキングしていました。(カルガリールートは新日本プロレスに押さえられていた)
新しい格闘技に近いスタイルのプロレスを理想とする新日本プロレスのプロパー出身の選手とはプロレスに対する考え方が違うのも事実でこの「方向性の違い」は表向きの理由ではないでしょう。R木村は後輩選手達との軋轢を避け、自ら身を引いた感じでした。
新シリーズ「ストロング・ウィークス」開幕戦となったこの日の後楽園ホールでは入団第1戦となった木戸修が藤原と組んでSタイガー&前田日明組と対戦、25分35秒、藤原がSタイガーをチキンウィング・フェイスロック(決まり手は変形裸絞め)でギブアップさせ9月7日、同所でのシングル戦で負けた借りを返しましたが、新日本プロレス時代、タイガーマスクに変身後はダイナマイト・キッドにフェンスアウトの反則負け(82年7月23日、金沢・石川県産業展示館)以外無敗だったSタイガーの「一本負け」はファンに衝撃を与え、UWFは「完全実力主義」を全面に打ち出していきました。
高田伸彦はタプー・サモアを9分33秒、ツームストン・パイルドライバーからの体固めで破り、山崎一夫はキューバン・アサシン1号(国際プロレスに来日した方、86年に新日本プロレスに来日した選手とは別人)を13分40秒、腕ひしぎ逆十字固めでギブアップさせました。
UWFのこのシリーズには65年に日本プロレスに来日したスウィート・ダディ・シキが実に19年ぶりに来日していますが成績は芳しくなかったです。
UWFはマーク・ルーインを始め、シキ、アサシン、サイクロン・ニグロ(カリプス・ハリケーン)、フランク・モレル、オマール・アトラス等日本にも馴染みのあるオールドタイマーを呼び、全盛期をとうに越えた彼らの持ち味を出すことなくキックとサブミッションでボコボコにし、潰してしまいました。
R木村が馴染まなかった理由も理解出来ます。
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