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2016年12月27日22:11

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ジャンボ鶴田怪物伝説(293)

オーストラリア遠征に向かった高千穂明久はヒト・トージョーのリングネームでヒロ・トージョー(サムソン・クツワダ)とのトージョー・ブラザーズとして活躍します。

初戦である73年10月19日、シドニーにおいてマーク・ルーイン、スパイロス・アリオン組を破ってオーストラリア・タッグ王座を獲得。

74年2月8日、シドニーでラリー・オーディ、ロン・ミラー組のオーストラリアンズに敗れ王座転落するまで君臨していました。

オーストラリア遠征からは74年4月の第2回チャンピオン・カーニバルに凱旋帰国。

高千穂が帰国してきた時には馬場の方針に不満を抱いていた大木金太郎、上田馬之助、松岡厳鉄は全日本を退団しており、日本プロレスから合流してきた残党の先輩はグレート小鹿だけになっていました。

その小鹿もテキサス州アマリロにカン・フー・リーとして遠征に出ており不在。

高千穂、クツワダと入れ替わりで大熊元司がカナダのノバスコシア地区に遠征、旗揚げメンバーの佐藤昭夫(昭雄)もカンザス地区に遠征と激しく動いていました。

ローカルテリトリー時代の海外マット界は稼げるテリトリーが沢山あり、レスリングの基礎が出来ている日本人レスラーはどこのプロモーターからも歓迎されていました。

小鹿が74年9月に凱旋帰国、大熊が75年2月に凱旋帰国すると、日本プロレス時代に一緒にアメリカで組んでいた「極道コンビ」が全日本で復活。

一方、日本プロレス崩壊時にアメリカにいた永源遥は73年10月に、星野勘太郎は74年1月に新日本プロレスのリングに参戦。

新日本旗揚げメンバーだった山本小鉄と星野が新日本でヤマハブラザーズ再結成となったのと極道コンビ再結成になったのはいささか状況は異なりますが似たパターンかと思います。

全日本の中堅層も層が厚くなり、高千穂、クツワダはオーストラリア遠征コンビとして本格的にタッグを結成、極道コンビとの抗争がスタートし、中堅どころの名物カードとなりました。

この他ミツ・ヒライ、マシオ駒組もありましたが体力的にはこの2チームより劣りもう1つ下のポジションと言えました。

高千穂は75年4月26日、徳島市立体育館の第3回チャンピオン・カーニバル敗者復活トーナメントDブロックで鶴田と初対決。回転エビ固めに敗れています。

翌76年2月16日、猪木がアジア選手権の開催をアピールして全日本と国際に参加を呼びかけると、馬場は日本プロレス代表の芳の里の協力を取り付け、日本プロレスにあったアジア・ヘビー級とアジア・タッグの両王座を「こちらが本家」とばかりに復活させました。

王座決定戦は76年3月に韓国で開催されシングルは日本プロレス時代最終保持者だった大木が小鹿を破り獲得。

タッグは小鹿、大熊組が金一道場の呉大均、洪武雄組に勝ち新王者に。

新日本のアジア・リーグ戦がモハメド・アリ戦終了後の7月開催だったのをいいことに早々と王者を決めてしまいました。

高千穂はこの時期、76年1月の新春ジャイアント・シリーズ終了後から第4回チャンピオン・カーニバルまでの期間、短期でオーストラリアに単独で遠征に出ており日本を不在にしていました。

この間2月21日、後楽園ホールの控室で馬場とサンダー杉山が口論となり、杉山はそのまま控室を出てしまい全日本を退団。

杉山が兼業だったのは以前書いた通りで馬場もそれを承知で全日本に呼んだのですが、それは旗揚げ前の人材不足に悩んでいた時期であり、選手が増えて来ると杉山の副業をたしなめるようになって来ていました。

杉山も話が違うとばかり両者の間には軋轢が生じており、スズケン以外にもタレント活動で才能を発揮していた杉山を馬場が不要に思っていたのも事実でした。

馬場「お前なんか、やめてしまえ!」

杉山「ああ、やめてやりますよ!」

と言った口論が起きたと当時のゴング誌に書いてありましたが、杉山は決まっていたテリー・マーチンとの試合にも出ずに控室を出てしまったのですから余程のことがあったかと推測します。

結局この日は小鹿がマーチンと対戦し1日2試合を行いました。

また、旗揚げメンバーのマシオ駒が腎不全の為35歳の若さで3月10日に死去。

駒は1月の新春ジャイアント・シリーズ序盤戦に出たものの体調不良で欠場、自宅のあった世田谷区下馬近くの三宿病院に入院していました。

私がプロレスを見始めて2017年1月で丸43年になりますが、その間、本当に多くのレスラーとのお別れがありました。

この日記の1日分に名前が出てくる馬場、鶴田、杉山、クツワダ、大熊、ヒライ、駒、大木、上田、山本小鉄、星野、永源はもうこの世の人ではありませんが、子供心にプロレスラーの「死」というものを初めて体感したのは駒が最初でした。

駒が亡くなった76年3月10日は全日本は日大講堂で鶴田試練の十番勝負第1戦、対バーン・ガニア戦が行われており(1-1から両者カウントアウト引き分け)、試合前に追悼セレモニーが行われ、遺影を抱いた馬場がリングに立ち10カウントの弔鐘が鳴らされています。

駒亡き後の全日本プロレスの若手コーチは高千穂が就任しています。
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