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2016年12月11日10:17

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ジャンボ鶴田怪物伝説(291)

高千穂明久は本名・米良明久、48年9月8日、宮崎県延岡市出身。プロレスラーを志して力道山存命中に日本プロレスに入門志願も、「坊や、中学校を卒業したらおいで」と芳の里に言われました。

中学校卒業後、力道山死後の64年に日本プロレスに入門、69年にはシンガポール遠征でフジ・コウタローのリングネームで活躍。

70年にはアメリカへ遠征に出て師匠でもある芳の里にあやかり、デビル・サト、ヨシノサトを名乗りヒール修行。

同年12月、ロサンゼルスでグレート・ゴリアスを破りカリフォルニア州TV王座を獲得。新日本プロレス旗揚げ前にNWFのリングにも上がっており、72年1月19日には日系人のミツ・荒川と組んでニューヨーク州バファローでの王座決定トーナメント決勝でトニー・パリシー(アントニオ・プグリシー)、ドン・デヌーチ組を降しNWF世界タッグ王座を獲得。(3月にオハイオ州クリーブランドでパリシー、デヌーチ組に敗れ転落)と順調に出世を遂げていきました。

同年9月、芳の里から帰国命令が出て、猪木、馬場が相次いで独立し選手層が薄くなった日本プロレスのピンチを救うべく凱旋帰国。

坂口のパートナーとして第3回NWAタッグ・リーグ戦にエントリー。10月31日、大阪府立体育会館ではラリー&ジョーのハミルトン兄弟を破って優勝しています。

奇しくも、この日は鶴田が「全日本プロレスに就職します」と言って全日本に入団発表をした日でした。

73年年明けに浮上したNET(テレビ朝日)主導による猪木の新日本プロレスと日本プロレスの合併案は、韓国から戻って来た大木金太郎が「育ててくれた日プロを売るようなことは出来ない」と反対し計画は頓挫。

日本プロレス離脱を決めた坂口は3月2日、横浜文化体育館でジョニー・バレンタインに敗れUN王座から転落。

さらに坂口は2月22日、大阪府立体育会館で大木と組んで保持していたインターナショナル・タッグもバレンタイン、キラー・カール・クラップ組に負け、吉村道明と組んでいたアジア・タッグ王座は吉村の引退に伴い返上と、3本のベルトを全て置いて猪木の新日本と合流を果たしました。

高千穂は3月8日、佐野市民会館で大物バレンタインを2-1で破りUN王座を獲得。

国内シングル初戴冠となった訳ですが、脇役だった自分にお鉢が回って来たことで、チャンピオンになった嬉しさよりも、会社の窮状のことが頭にあり素直に喜べない気持ちの方が強かったようでした。

これでNETは日本プロレスに見切りをつけてテレビ中継を3月一杯で打ち切り、4月からは新日本の放送を開始。

残された大木以下日本プロレス勢は選手会主催による「アイアン・クロー・シリーズ」を強行しました。

高千穂は4月19日、横浜文体でクラップを2-1で撃破しUN王座を初防衛したものの、日本プロレスは力尽き、翌20日の群馬県吉井町体育館大会を最後に興行活動を停止しました。

日本プロレスにこの時点で残っていたのは大木、上田馬之助、グレート小鹿、松岡厳鉄、ミツ・ヒライ、高千穂、桜田一男(ケンドー・ナガサキ)、羽田光男(ロッキー羽田)、伊藤正男の9選手。

さらに海外に人減らしの為に遠征に出されていた組に星野勘太郎、永源遥、戸口正徳(キム・ドク)、安達勝治(ミスター・ヒト)、林牛之助(ミスター林)などがおりました。

芳の里日本プロレス社長は力道山家(百田家)に仲介を依頼し、馬場の全日本プロレスへ国内で試合をしていた9選手を入団させることで馬場、日本テレビにこれを承諾させました。
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