第349戦、7月17日発売号●【予想】鶴田、全日本プロレス移籍の人間風車と65分の激闘、試練の十番勝負第4戦、鶴田vsビル・ロビンソン(76年全日本プロレス北九州市小倉区三萩野体育館)【正解】ゴメスが師匠・猪木を相手に語った草創期のブラジリアン柔術、猪木、イワン・ゴメス師弟対談(75年7月14日東京スポーツ新聞社応接室)
※参考 2019年7月17日発売号は●【予想】カマタが連れてきた「とんだ一杯食わせモノ」インターナショナル・タッグ選手権試合、馬場&鶴田組vsキラー・トーア・カマタ&グレート・マーシャルボーグ(81年全日本プロレス下妻市立総合体育館)【正解】混迷する世界王座マップの象徴だったUWA、UWA世界ヘビー級選手権試合、猪木vsタイガー・ジェット・シン(80年新日本プロレス蔵前国技館)この時点での対戦成績は94戦19勝75敗、勝率202。2013年7月17日発売号は右手が全く使えない藤波が奇跡のフォール勝ち!WWFジュニア・ヘビー級選手権試合、藤波辰巳vsキース・ハート(80年新日本プロレス蔵前国技館)
【予想解説】「鶴田を世界のトップレスラーにする為」に企画された「試練の十番勝負」。第1戦は76年3月10日日大講堂でAWAの帝王バーン・ガニアと対戦し1−1から両者リングアウトの引き分け。第2戦は3月28日蔵前国技館での全日本プロレスと国際プロレスの全面対抗戦で国際プロレスのエース、ラッシャー木村と対戦、1−1から両者ダブル・フォールの引き分け。
第3戦は6月11日蔵前国技館でNWA世界ヘビー級王者テリー・ファンクに挑戦、1ー1からの3本目、フライング・ボディシザースドロップをテリーに受け止められてロープ際にタイミングをずらされ、身体を沈められた為、トップロープに喉を打ち付けてしまい、そのまま押さえ込まれて体固めでフォール負けを喫してしまいました。
これまでは1敗2分と白星なし。第4戦の相手は僅か7か月前の75年12月11日新日本プロレスの蔵前国技館で猪木のNWF世界ヘビー級王座に挑戦、1−1から60分時間切れ引き分けの名勝負を展開したロビンソン。
72年のアメリカ進出以来主戦場にしていたAWAを離れていたロビンソンは帰国後はフロリダでファイトしていましたが、新日本プロレスへ再来日を打診したところ、新間寿営業本部長より前回よりギャラダウンを提示されて怒り、フロリダのブッカーをしていたドリー・ファンク・ジュニアにその旨を告げて全日本プロレスにブッキングされ、全日本プロレスへ移籍、76年7月1日名古屋市体育館で開幕の「サマー・アクション・シリーズ」で全日本プロレスに初登場しています。
ロビンソンは前週7月10日岐阜県美濃加茂市中濃体育館(現プラザちゅうたい)で助っ人参戦しているヒロ・マツダを14分53秒、ワンハンド・バックブリーカーからの体固めで破り好調ぶりを見せつけました。
地方初開催となった鶴田との試練の十番勝負第4戦、この日はテレビ生中継でしたが中継が開始した時には既に20分経過していました。1本目は29分5秒、ロビンソンが欧州式エビ固め(ヨーロピアンクラッチ)で先制、2本目は21分29秒、鶴田がロビンソンの回転エビ固めを切り返してエビ固め。
2本目が終了した時点で、試合時間は既に50分をすぎており3本目は時間切れ。5分間の延長戦も時間切れとなり1−1から時間切れ引き分けとなりました。
それにしても猪木戦では「ロビンソンをスープレックスで投げる」と公約していた猪木のスープレックス狙いをことごとくディフェンスし、猪木は終盤にロビンソンをリバースフルネルソンに捕らえたものの腰の踏ん張りが効かずただ倒れ込んだだけに終ってしまったのに対し、鶴田には簡単にドリー式の「孤が大きい足から落ちる」ダブルアーム・スープレックスであっさり投げられるのを許してしまったのは観ていて悲しいものがありました。
翌週の7月24日は蔵前国技館で馬場とロビンソンのPWFヘビー級選手権試合が行われることが決定していましたが、この日の結果を観て、勝敗の予想がついてしまった次第…。
【正解解説】前回のUFCの原点でも少し触れたバーリトゥードの王者だったゴメスは74年12月の新日本プロレス初の「ブラジル遠征シリーズ」の際、猪木に挑戦表明をしましたが、猪木は「まず俺たちの練習を見ろ」と同行していた新日本プロレスの若手の練習を見せ、ゴメスはレスリングの技術に関心を持ち、新日本プロレスに入って本格的にレスリングを学ぼうと来日。
75年5月16日日大講堂から翌76年2月6日日本武道館まで新日本プロレスの前座で試合をし、91戦無敗の成績で帰国しました。
フィニッシュは専ら「足固め」と呼ばれたヒールホールドで、藤原喜明、デビュー前の佐山サトルらが後に試合でも出して第一次UWFから日本のファンにも技が広く認知されるようになった訳です。
本稿ではゴメスがデビューして3シリーズ目の75年「サマー・ファイト・シリーズ」のオフ中に築地にあった東スポの応接室で師匠となった猪木との対談を採り上げています。
その中でゴメスは「バーリトゥード(当時の表記はバリツーズ)は足技だけのカポエイラとは違い全身を使ってファイトする。我々のグランドマスターはコンデ・コマ(ブラジルに移住した日本人柔道家の前田光世)である。バーリトゥードは日本の柔術と空手をミックスさせたものだ。柔道ではなく柔術だ。」と語っています。
20世紀初頭コンデ・コマから派生した柔術はブラジリアン柔術として確立されていきました。1951年に日本から木村政彦がブラジルに渡りグレイシー柔術の祖と言われたエリオ・グレイシーをキムラロック(腕絡み)で破りました。その3年後に木村はプロレスラーになります。
前回の正解を揶揄する訳ではありませんが、93年11月12日コロラド州デンバーで開催された第1回UFCでエリオの六男であるホイス・グレイシーが準決勝でUWFスタイルのレスリングを取得していた当時のパンクラスの契約レスラーだったケン・シャムロックを決勝でジェラルド・ゴルドーをいずれもチョークスリーパーで撃破し優勝したことを考えるとまさにバーリトゥードがUFCの原型と言えます。
なお、本稿でゴメスの76年8月新日本プロレスの2回目の「ブラジル遠征シリーズ」についての記述がありますが、こちらは初戦が木戸修、第2戦がストロング小林で最後にウィリエム・ルスカとの喧嘩マッチに負けたとありますが、これは全くの逆です。
初戦が8月7日リオデジャネイロでの問題となったルスカ戦で、第2戦が8月11日首都ブラジリアでのS小林戦、第3戦の8月14日サンパウロはNETの中継が入り木戸戦はテレビ中継されています。
ゴメスは90年3月2日に腎臓病の悪化により50歳の若さで亡くなりましたがもしゴメスが生きており格闘技の指導者をしていれば、その後の日本の総合格闘技のシーンにコーチで登場していただろうと思われます。
※対戦成績は349戦57勝292敗、勝率163。
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