マイティ井上は77年4月からカナダ・カルガリーに遠征、9月4日後楽園ホールで開幕の「スーパー・ファイト・シリーズ」に凱旋帰国しました。カルガリーではバーン・ガニアと30分フルタイム・ドローの死闘を展開。自信をつけての凱旋帰国でした。
また、同時期に女優・西尾三枝子さんとの結婚も発表し(後に離婚)、公私共に充実していました。
帰国した井上はラッシャー木村に挑戦を表明、9月7日大阪府立体育会館で両者の2年2か月ぶりの同門同士のIWA世界ヘビー級選手権試合が実現しています。
戦前は井上有利説が多かったですが、R木村は井上戦についてコメントを求められると、「俺は末雄(井上の本名)の背中は流したくない。」と静かに語るにとどまりました。
「背中を流す」という言い回しは相撲社会のしきたりを例えにしたもので、番付の下の力士は例え先輩であっても、風呂で番付上位の後輩の背中を流さなければならない、そんなことはしたくないというR木村独特の表現でした。
日本のプロレスは創始者である力道山が、大相撲の生活体系をそのまま踏襲して持ち込んでおり、付き人制度やちゃんこ番というものが今も継続して残されています。
この大阪大会から東京12チャンネル「国際プロレスアワー」のテレビ解説者に、国際プロレスとは深いつながりを持つフリーのプロレスライター・菊池孝氏が登場、名調子杉浦滋男アナウンサーと絶妙のタッグを結成しました。
私は「杉浦節」と言われた杉浦アナウンサーの実況が大好きでした。とにかく知識が豊富。念入りに下調べをし、人間味あふれる喋りは名実況の定評がありました。
杉浦アナウンサーは97年12月に61歳の若さで亡くなられていますが、告別式の模様はサムライTVでも放送されました。
R木村と井上のIWA世界ヘビー級選手権試合61分3本勝負。井上は地元大阪でのタイトル挑戦とあって下手な試合は出来ないというプレッシャーがありました。
1本目は23分54秒というロングランの末、井上のフライング・ショルダーアタックをカウンターのクロスチョップで迎撃したR木村が体固め、2本目は1分34秒、井上が回転エビ固め、決勝の3本目は2分25秒、井上のフライング・ショルダーアタックを自爆させたR木村がリングアウト勝ち。井上は得意の飛び技を返されて2本取られるという内容では完敗でした。
77年秋、再び全日本プロレスと国際プロレスの対抗戦の狼煙が上がりました。
11月3日、全日本プロレスの後楽園ホール大会でグレート小鹿&大熊元司組の持つアジア・タッグ王座に国際プロレスの選抜チームとしてアニマル浜口&鶴見五郎組が挑戦。
試合の前のカード発表の時、馬場は挑戦者の浜口、鶴見組について「挑戦者チームは鶴見がちょっと軽いな。まぁウチの防衛で間違いないだろう」と辛口のコメント、これに吉原社長は「馬塲君は何を失礼なことを言っているんだ、浜口&鶴見組はウチが自信を持って送り込むチームだ!」激怒した一幕がありました。
しかし試合はやはり極道コンビの方が一枚上で、2-1で小鹿、大熊組の防衛。鶴見はキャリアの浅さを露呈し、流血させられての完敗でした。
試合後、セコンドにいた井上が極道コンビに突っかかり、「今度は俺が行ってやる。」とアピール。
3日後の11月6日、国際プロレスの後楽園ホール大会で井上&浜口組の「和製ハイフライヤーズ」が小鹿&大熊組に挑戦。浜口が大流血させられながらも、1-1で迎えた3本目、井上がコーナーの小鹿に押さえられながらも突進してきた大熊に前方回転エビ固めを決めて決勝のフォールを奪い井上&浜口組がアジア・タッグ王座を奪取。
力道山が日本プロレスを統一後、史上初めてタイトルが別の団体に移動したという歴史的意義のある勝利でした。
このタイトル移動劇を韓国で知った馬場は、帰国後、国際との全面対抗戦を吉原社長に持ち掛けました。吉原社長もこれを受けて立ち、R木村を筆頭に対抗戦が決定。
全日本プロレスは11月4日諏訪湖スポーツセンターで「ジャイアント・シリーズ」が閉幕した後、年末のタッグの祭典「世界オープン・タッグ選手権」開幕戦の12月2日後楽園ホールまで年内のスケジュールが決まっていた為、国際プロレスの「ダイナマイト・シリーズ」の終盤1週間を対抗戦に振替。
11月25日前橋・群馬県スポーツセンターから12月1日の和歌山県立体育館まで全6戦の「全軍対抗戦」が行われることになりました。
前76年3月28日蔵前国技館での「全面対抗戦」に不参加だった馬場も全日本プロレスのエースとして対抗戦に参戦しています。
11月26日秋田・大曲市圏民体育館では何かと因縁のある馬場と草津がシングルで対戦。11分56秒、馬場がグラウンド・コブラツイストで勝利。
翌27日、岩手県宮古ボウルではR木村と鶴田が3度目となるシングルでの一騎打ち60分1本勝負。R木村がクロスチョップからのドリルアホール・パイルドライバーで21分18秒、片エビ固めでついに鶴田から初勝利を上げています。残念ながらこの日の試合はノーテレビで、映像は残されていません。
11月29日東京・高田馬場の「BIG-BOX」で記者会見が行われ、ラグビー元全日本代表の原進(当時32歳、阿修羅・原)の国際プロレス入団が発表されています。
この日は対抗戦唯一の東京開催となった大田区体育館大会。メインイベントは井上と鶴田のシングルマッチ60分1本勝負、18分37秒、鶴田が井上のダイビング・ボディプレスを自爆させてすかさずフォールに入り体固めで勝ち。
R木村&草津組は馬場&ロッキー羽田組と対戦。13分52秒R木村が羽田を張り手からのブレーンバスターでフォール。
30日静岡駿府会館は東京12チャンネルが収録、井上&浜口組のアジア・タッグ王座に高千穂明久&サムソン・クツワダ組の「オーストラリア遠征コンビ」が挑戦。1-1から井上がクツワダを回転エビ固めに丸め込み、2−1で井上&浜口組が初防衛に成功。
最終戦の12月1日和歌山県立体育館では前アジア・タッグ王者チーム、小鹿&大熊の極道コンビが井上、浜口組にリターンマッチを挑みました。試合は1-1から両チームリングアウトとなり、井上、浜口組が2度目の防衛を果たし、アジア・タッグ王座は国際プロレスに渡ったまま、越年することになりました。
この「全軍対抗戦」は点数制で行われ、勝ち2点、時間切れ引き分け1点、負け、両者リングアウトが0点でスコアが付けられ、団体戦は36-34で全日本プロレスの勝ちとなりましたが、R木村が鶴田にフォール勝ちを収めたことと、井上&浜口組がアジア・タッグ王座を守り切ったことで内容的には国際プロレスが上回りました。
ログインしてコメントを確認・投稿する