84年6月22日、東京・永田町のキャピトル東急ホテルにおける全日本プロレスの馬場会長と新日本プロレス興行の大塚直樹社長の業務提携発表、新日本プロレス興行が全日本プロレスの興行を主催することに対して不快感を現したのが新日本プロレスの坂口征二副社長。
坂口は大塚に対し「ウチを取るか全日本を取るかはっきりしろ!全日本の興行を買うならウチの興行は売らない」と二者択一を迫っています。
84年新日本プロレス「サマー・ファイト・シリーズ」7月8日は日曜日の後楽園ホール大会、この日は新日本プロレスへ興行への売り興行。
日曜日の後楽園ホールと言えば全日本プロレスの定番でしたが毎回、満員、超満員を記録しており、お客さんの集め易さでは日曜日は強く、新日本プロレス興行設立以来、3月4日、5月27日と今回で3シリーズ連続の開催となりました。
試合前に、新日本プロレスから81年に崩壊した国際プロレスの元社長である吉原功氏の顧問就任が発表されています。
吉原は団体が崩壊した後、国際の残務整理を行い北浦和にあった自宅等資産を処分し、負債を処理した後、生保の外交員をやっていたと聞きましたがテレビ朝日から出向していた早稲田大学レスリング部の先輩である永里高平専務の口利きで顧問に就任しました。
吉原に先に声かけをしたのはUWFの浦田昇社長でした。ラッシャー木村が所属選手にいたこともあり、外国人ブッカーとして起用しようと考えていたのです。
カルガリーにルートを持ち、バーン・ガニアのAWAにも顔が効く。資金さえあればある程度の大物を呼べる力は持っていました。
吉原自身も、冷却期間があったこともあり、またプロレスの仕事に復帰出来ることに喜びを感じていたそうです。
しかし、それを察知した新日本の永里専務は「吉原をUWFに行かせるな」とこれを阻止にかかりました。
というのも新日本プロレスとWWFの関係が微妙なものになって来ており、WWF以外の外国人ルートを確保する必要がありました。
81年8月9日、北海道羅臼町民グラウンド大会を最後に15年に亘る団体活動を停止した国際プロレスの吉原社長は永里専務を通じて所属選手を新日本に預けることで話を進めていました。
10月8日、蔵前国技館での全面対抗戦が終わったら国際の選手は新日本に外敵として上がることになっていましたが、猪木嫌いとして知られるマイティ井上が吉原の方針に反発して菅原伸義(アポロ)、米村天心(入団せず)、冬木弘道を連れて全日本入り。さらに阿修羅・原も別ルートで全日本へ。
後から判明した話では吉原の選手全員を預ける、という話に猪木は「全員なんか、要らない!」と反対し、水面下でラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇の3人だけに「10月8日の蔵前が終わった後も継続して新日本に上がる旨の契約」を個別で交わしていた、というのです。
井上他の反乱は猪木の動きを知ったからであり、給料未払で会社を倒産させた吉原社長の人望のなさだけではなく、選手達が生活していく為の選択でした。
浦田社長からの誘いは吉原にとっては大変有難い話でしたが、やはりそこは縦社会。永里専務の意向を汲み取った吉原は新日本の顧問になることを選択しました。
吉原はカルガリー在住のかつての「北米支部長」大剛鉄之介に新日本のブッカーをやるように指示を出しました。
このことが、カルガリーで新日本の若手の面倒を見つつ、新日本にも外国人を送っていたミスター・ヒト(安達勝治)と新日本の決定的亀裂要因となりました。
ともあれ、吉原の新日本プロレス顧問就任でかつての弟子で色々な因縁浅からぬストロング小林と最後の最後に来て10年ぶりに同じ会社に所属するという接点が出来た訳です。
「サマー・ファイト・シリーズ」は北海道へ移動7月13日は帯広市総合体育館からのテレビ生中継。
メインイベントはヘビー、ジュニア混成の6人タッグマッチ猪木&藤波&ザ・コブラ組vsデビッド・シュルツ&ダイナマイト・キッド&デービーボーイ・スミス組はフェンスアウトによりコブラがスミスに反則勝ち。
この試合で猪木がスミスに見せた延髄斬りは打点も高く、コンディションを上げて来ていると実感させられました。
セミファイナルでは、長州力&谷津嘉章組の維新軍とバッドニュース・アレン&マイク・デービス組で長州がリキラリアットからバックドロップで軽量のデービスを体固め。
小林邦昭はカネックと両者リングアウトとなっています。
7月20日、札幌中島体育センターでのテレビ生中継は7,000人超満員発表の観客を動員しました。
この日はWWFの2大タイトルマッチ。まずはセミ前に行われたのがキッドにスミスが挑戦したジュニア・ヘビー級選手権試合。
当初はシリーズ前にUWFに移籍した高田伸彦がキッドに挑戦する予定でしたが高田の離脱でスミスが挑戦、従兄弟対決となりました。
結局、前回の2月3日、札幌中島での興行とセミとセミ前は同一カードとなった訳です。
観客席の遠目から見ると風貌がよく似ている両者でしたが、(体格はスミスの方が上)キッドは黄色のトランクスにオレンジのロングタイツ、スミスは青のロングタイツとコスチュームの色を分けていました。
試合はスミスが得意のリフトアップ・スラムで先制、キッドも高速低空ブレーンバスターで反撃。
若さとパワーで優るスミスは逆エビ固め、吊り天井と押し気味に進め、ブレーンバスター、バックドロップと畳み掛け。
スミスの攻め疲れ待っていたキッドはサイド・スープレックス、バックドロップ、延髄斬りで反撃。スミスが勝負を賭けて放ったラリアットは相討ちとなり両者ダウン。
先に起き上がったキッドがコーナーポスト最上段からのダイビング・ヘッドバットをズバリと決めて15分52秒、体固めで勝利。王座初防衛を果たしています。
身内対決、パートナー対決にありがちな仲良し試合にはならず、ダレることのないいい試合でした。
セミは藤波vs長州のインターナショナル・ヘビー級選手権試合。5か月半前の同所での対戦は試合開始前に起きた藤原喜明による入場時の長州襲撃で額から長州が大流血、前代未聞の試合不成立となっていますが、藤原はもう新日本にはおらず、僅か5か月半前ながら随分昔の出来事のように感じられました。
試合序盤はグラウンドでの攻防、藤波はコーナーで張り手、チョップの連打。長州もサソリ固めからリキラリアット。これは藤波が場外に逃れ呼吸を整えます。
長州のバックに回った藤波はフルネルソン。ドラゴン・スープレックス狙いか?嫌がる長州、すかさず藤波はバックを取ってジャーマン・スープレックスホールド。これをカウント2でキックアウトした長州はカウンターの膝蹴りからサソリ固め。
しかしこの時次のメインイベント出場の猪木が試合コスチュームのまま首に赤いタオルをかけたままリングに近づいて来て場外フェンスのところまでやって来ました。
長州は猪木に気を取られてしまい、サソリをほどいて猪木のいる方向へ行き何やらクレーム、おそらく「返れ!」と言っているのでしょう。
そこをついた藤波が長州のバックに回りバックドロップ一発。不意を突かれた長州はフォール負け。15分8秒体固めで藤波が4度目の防衛に成功しています。
ピンフォール決着ながら、またもスッキリしない結末となりました。長州は猪木に対して怒りをぶちまけました。
結局、この試合が長州離脱前の最後の藤波とのシングル戦であり、名勝負数え唄は事実上ここでピリオドを打ったと思います。
メインは猪木&木村健吾組vsシュルツ&アレン組で木村健がシュルツに反則勝ちとなっています。
84年7月23日(現地時間)、ニューヨークMSGで行われたWWFの「ビンス・マクマホン・シニアメモリアルナイト」に参加の為、猪木は渡米し、新日本プロレスのサマー・ファイト・シリーズ7月23日、五所川原市民体育館、24日、弘前市民体育館、25日、十和田市民体育館の3大会を欠場しています。
MSGのリングで試合をしたのは80年12月29日のボビー・ダンカン戦(NWFヘビー級選手権試合)以来3年7か月ぶりでしたが、今回はシニア時代と異なりテレビ朝日の収録もありません。
シニア時代であれば猪木の試合はもとより、ハルク・ホーガンの試合も収録OKだったと思われますが、そこはビンス、厳しい取材規制、報道規制をかけています。
猪木はチャーリー・フルトン(73年2月日本プロレス、76年5月新日本に来日、80年10月には国際プロレスにマスクマンのザ・USSRとして来日)と対戦し9分32秒、延髄斬りからの体固めで勝利。
フルトンは2016年3月に67歳で亡くなっていますが、訃報が日本でYahoo!ニュースで流されたのもひとえにこの時の猪木戦があったからに他なりません。
猪木はさらにビンス・マクマホン・シニアメモリアル・バトルロイヤル(18人参加)にも出場し23分12秒、レネ・グレイを体固めで破り優勝を果たし、ビンス・シニアの霊前に花を添えました。
この日のメインイベントはホーガンにグレッグ・バレンタインが挑戦したWWF世界ヘビー級選手権試合。
スリーパーホールドでホーガンのスタミナを奪う作戦に出たバレンタインが試合を優勢に進め、ホーガンの膝を椅子で攻撃。得意の足4の字固め狙いにいきますがこれはホーガン懸命のカット。
ならばとバレンタインはセカンドロープからのダイビング・エルボードロップ、これはホーガンがカウント2でクリア。
さらにバレンタインはもう一度セカンドロープに登ってのダイビング・エルボースタッブ、これはホーガンが下からカウンターのアックスボンバーで迎撃しました。顔面にヒットしてバレンタインはダウン。
ホーガンはすかさずロープに飛んでのギロチンドロップから体固め。カウント3が入り、ホーガンの勝利。王座防衛に成功しています。
この日のもう一つのハイライトはWWF世界女子選手権試合。王者ファビュラス・ムーラにウェンディ・リヒターが挑戦しリヒターが勝利して新王者になっています。
リヒターは80年に全日本女子プロレスに来日、ザ・ダラス・カウガールとして日本でも女子版スタン・ハンセンという高い評価を受けて人気が急上昇。
全女ではミミ萩原やジャガー横田とも対戦していますが、ヒール外国人ながらも美貌を誇り、男性ファンも多く、ベースボール・マガジン社発行の「デラックス・プロレス」編集部に呼ばれ一日編集長にもなりました。
世界女子王座はWWFの前身であるWWWF発足前の56年に創設されていますが、ニューヨーク州アスレチック・コミッショナーが女子プロレスの試合を禁止した為、いつしか封印されていましたが、ビンスの時代になり復活。
WWFで長年ヒールマネージャーをしていたキャプテン・ルー・アルバーノは音楽業界に精通しており、歌手のシンディ・ローパーと交流がありました。
その関係からアルバーノを通してローパーがゲストで呼ばれ、ベビーフェイス(アメリカでは)のリヒターのセコンドに。
ヒールのアルバーノはムーラのマネージャーに付くという対立アングルが組まれています。
この試合はロックとプロレスの融合という形で米国MTVで全米ネットワークで流され、大きな話題を集めました。
これが翌年から開催される世界最大級のプロレス・ショー「レッスルマニア」の原点と言うべき試合でした。
23年生まれのムーラはこの時既に61歳になっていましたがまだまだ現役であり、メイ・ヤングとのおばあちゃんタッグで07年に84歳で亡くなるまで現役を名乗りました。
ムーラvsリヒターの試合のコンセプトはWWWF創成期のバディ・ロジャースvsブルーノ・サンマルチノのパターンであったことはこの日記を毎回読んで下さるマニアの方であればお気づきかと思います。
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