81年全日本プロレス「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦、12月13日蔵前国技館(テレビ収録、観衆11,500人満員発表)私はこの興行は会場で生観戦しています。5日前の12月8日、新日本プロレスの同所での興行と同数発表ながら実数では8日の新日本を下回り空席はありました。
興行戦争は後から開催する方は前の興行の観客発表を知った上での発表となる為、満員になれば上乗せして発表すれば良いのであって仲良く同数発表、引き分けというのは後発の方が実数で動員を下回っていることの方が多いです。満員になっていれば、例え1,000人でも先発より多く水増しするのがこの業界の通例。
中学校時代の友人と2人で観に行った私は「これで興行戦争も勝負あったな、全日のダラダラ興行を見届けて81年を気持ちよく締め括るとするか」と余裕をぶっこいていました。数時間後に「大事件」が起きるとも知らず…。
この日は4大公式戦が組まれ、まず天龍源一郎&阿修羅・原組はバロン・フォン・ラシク&キラー・カール・クラップ組と対戦。
新日本のワールド・リーグ戦の常連で公式戦で猪木、坂口に圧倒的に分が良かったクラップはWWFの大物が多数上がるようになった新日本からは不要とされ、80年には国際プロレスに転戦。
よって引き抜きではないですが扱いは最下位ランクで、見せしめの為に全日本に呼ばれたようなものでした。
試合は天龍がクラップを延髄斬り2連発から卍固めでギブアップさせるという古くからの新日本プロレスファンには何とも痛烈なフィニッシュとなり、天龍&原組は最終戦で初白星、8戦1勝7敗、失点14の2点で終了、ラシク&クラップ組はザ・シーク&マーク・ルーイン組と両リン、グレート小鹿&大熊元司組に勝った以外は全敗の8戦1勝6戦敗1両リン、失点14の2点で負けは全部クラップが取られました。
この時期、ジョニー・パワーズが目先の金欲しさに全日本プロレスに呼ばれてなくて良かったと思います。天龍やリーグ戦にエントリーされない石川隆士に足4の字固めでギブアップ負けさせられ、佐藤昭雄、小鹿、大熊にスクールボーイや逆さ押さえ込みで負けていたのではないでしょうか?
次のハーリー・レイス&ラリー・ヘニング組とシーク&ルーイン組は両チームスタートから乱闘となり僅か1分54秒レイス組の反則勝ち。このあたりは完全に消化試合でしょう。レイス&Lヘニング組は8戦4勝4敗失点8の8点。シーク組は8戦2勝4敗1両リン1両軍反則、失点12で4点、負けは全部反則負けです。
セミファイナルの馬場&鶴田組vsタイガー・ジェット・シン&上田馬之助組は両チームリングアウトの無得点試合となり馬場&鶴田組は8戦5勝1時間切れ引き分け2両リン、失点5の11点となりメインの結果待ち。シン&上田組は8戦5勝1両リン2両軍反則、失点6の10点で脱落です。
そして迎えたメインイベント、ドリー&テリーのザ・ファンクスvsブロディ&スヌーカ組の公式戦最終試合。
先にファンクスがラッキーコインを投げながら入場、続いてブロディ&スヌーカ組が入場。スヌーカの後ろにはテンガロン・ハットを被った白いシャツ、ジーンズ姿のスタン・ハンセンがセコンドについて一緒に入場。
つい3日前までは新日本プロレスのリングで試合をしていたハンセンが全日本の会場に姿を現したことで館内は大変な騒ぎとなりました。
中には「ハンセン・コール」をはじめているファンもいます。
殺気立つ館内、ハンセンはリング下のブロディ組のコーナーの鉄柱に陣取り、レフェリーのジョー樋口はハンセンに帰るように指示しますが、ハンセンは両手を広げて「俺は何も手を出さない」というジェスチャー。
異変が起きたのは試合開始15分過ぎ、場外乱闘となりブロディがセコンドのハンセンめがけてテリーを振りました。
ハンセンは既に左腕にサポーターを着けて待ち構えており、ブロディに振られて来たテリーにウェスタン・ラリアット一閃!(実際はテリーは両腕でガードしていた)
これでテリーはダウンし場外に敷かれた紙テープの山の上で失神し戦線離脱。
孤軍奮闘となったドリーはブロディ、スヌーカの2人がかりの攻撃に防戦一方となり、必死にフォールを跳ねのけて来ましたが、21分41秒、ブロディのキングコング・ニードロップの前についに力尽き、体固めで敗れました。
これで8戦6勝1両リン1両軍反則、失点4で12点を挙げたブロディ&スヌーカ組が初参加、初優勝。ファンクスは8戦5勝1時間切れ引き分け2敗、失点5の11点。
ブロディ&スヌーカ組が優勝を決めた瞬間、セコンドにいたハンセンがついに全日本のリングに上がり、優勝した2人を祝福。「手を出さない」はずのハンセンはラリアットでテリーを戦闘不能に追い込んだばかりか、リングの上に上がってしまいました。
リングに乱入したハンセンに対し怒りのドリーが立ち向かいましたがスタミナ切れを起こしていたドリーは返り討ちに合ってしまいました。
そこへ馬場、鶴田が救援にやって来て馬場がハンセンに脳天チョップを乱打。
ハンセンは額から流血しました。実はこの時テレビの画面でハンセンがジーンズのポケットから剃刀のようなものを出して自分で自分の額をカットしていたのが見えてしまっています。
流血したハンセンは控室へ逃走。会場で確認出来たのはここまでであり81年12月19日(関東地区)に日本テレビで放送された全日本プロレス中継でバックステージの模様が映し出されその後の衝撃的シーンを見ることが出来ます。
蔵前国技館の支度部屋の通路で額を切られて流血したハンセンはカメラに向かって物凄い形相で何やらまくし立てています。
支度部屋の隅の方ではハンセン乱入を知らされていなかったと思われるザ・シークがこれを見て日本での仕事が減少すると危機感を抱いたか、
アメリカでは子分格にあたるタイガー・ジェット・シンと乱闘を始めてしまう始末。
これはおそらくプロモーターである馬場が知らなかったことと思われ、シークの勝手な行為に激怒した馬場はシークを2度と全日本に呼ぶことはありませんでした。
ちなみにシークがこの次に来日したのが91年11月、FMWにこの時初来日だった甥のサブゥーを連れて世界最強総合格闘技タッグ・リーグ戦に参加した時ですから実に10年もの歳月を経てしまった訳です。
いずれにせよ、肉体凶器的なハンセンが全日本に来たことでシークのようなタイプのヒールは必要性がなくなってくることは間違いないところで、タイガー・ジェット・シンも移籍後僅か半年で存在感は薄くなってしまいました。
代わってカメラは日本側の支度部屋で怒りの馬場の姿をとらえました。
「ふざけんじゃないってんだよ!人ん家(チ)に土足で上がりこんで!え?そうでしょう!?来るなら堂々と来てもらいたいもんだ。彼に言っておいてよ。ここのリングで待ってるって!じゃあ、表彰式行って来るから」
今映像を見ると突っ込みどころが満載ですが、当時は馬場の鬼気迫る迫真の演技を見て本当に恐ろしいと感じました。
やはり馬場のアメリカにおけるプロモーターとしての実力は侮れない。私は猪木ファンでしたので完全にやられてしまった、と言う感じでした。
がハンセンが全日本に行ってしまったショックが大き過ぎて、帰りの総武線の電車の中ではお互いに一言も喋りませんでした。
翌日学校に行き、同じクラスのプロレスを一緒に観戦していた仲間にこのことを話すると、重苦しい空気に包まれてしまいました。やはり猪木ファンが圧倒的に多かったので仕方なかったですね。
1人、テキサスブロンコを名乗るテリー信者のTだけは「ハンセンの無法乱入によってファンクスが優勝出来なかったことがショックだった」と語っていました。
インターネットのない43年前の古き良き時代のどこにもある昭和の高校の風景でした。
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