全日本プロレスとの興行戦争ですが、全日本プロレスは新日本プロレスより1日早い81年8月20日後楽園ホールから「スーパー・アイドル・シリーズ」が開幕。力道山時代から27年続いた日本のプロレスの歴史において「アイドル」という名称が使われたのはこれが最初(これ以降、女子プロレスも含めてあったかどうかは不明)。
ミル・マスカラス&ドスカラスのマスカラス・ブラザーズ、NWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王者チャボ・ゲレロ、ジプシー・ジョー、ジノ・ヘルナンデス、ドクトル・ワグナー、アニバルがシリーズ全戦参加。リッキー・スティムボートが前半戦特別参加。
特筆すべきはチャボが新日本プロレスで獲得したNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座のベルトを持ったまま全日本プロレスに移籍したということでこれには新日本プロレスと新日本プロレスのファンは少なからず衝撃を受けました。
チャボは前80年の「闘魂シリーズ」に来日、11月3日、新日本プロレス蔵前国技館大会で木村健吾にリングアウト勝ちし第6代NWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王者となりました。
11月6日津市体育館でシリーズが閉幕し帰国すると11月7日、ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムでビクター・リベラと対戦したのを最後に、長年のホームリングであったロサンゼルスを離れ、新日本プロレスとはビジネスをしていないテキサス州サンアントニオのサウスウェスト・チャンピオンシップ・レスリング(ジョー・ブランチャード代表)に移籍。
11月30日にはサンアントニオでブラック・ゴールドマンを相手にNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座を防衛しています。
チャボは翌81年1月の「新春黄金シリーズ」に来日が予定されていましたがこれをキャンセル。予定通り来ていれば、木村健にベルトを返す手筈になっていたでしょう。
NWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級のベルトは元々は新日本プロレスがフロリダのプロモーター、エディ・グラハムに働きかけて作った新日本プロレス所管のベルト。チャボは新日本プロレスにベルトを置いて他のテリトリーに移るのが業界の掟です。
しかし、チャボはガチで業界のルールを破りサンアントニオに行ってしまった。普通ならそんなレスラーを使うプロモーターはおらず、干されてしまうでしょう。
チャボがアメリカで75年秋から5年の長きに亘りホームリングとしていたロサンゼルスは80年より業績不振が続き、81年にはプロモーターのマイク・ラベールの母親で女傑として有名だったアイリーン・イートン女史が持っていたオリンピック・オーデトリアムの興行権を手放さざるを得なくなり、チャボとはギャラを巡るトラブルが発生していました。
81年にはラベールはオリンピック・オーデトリアムを出てロサンゼルスのスポーツアリーナにハコ変えし、オリンピック・オーデトリアムも借りて興行をしていましたが、常打ち会場を失ったダメージは大でした。
新日本プロレスの新間寿営業本部長はチャボの一件に関して「あれはマイク・ラベールがだらしがなかったんだよ。ラベールがカジノに大金を注ぎ込んでスッちゃって金を払ってないからチャボを止められなかったんだよ。」と言っており、おそらく「未払いのギャラのカタにベルトを持っていった」ということでしょう。
ならばラベールが「チャボを使うな!」などとは言えるはずもなく、仮に言ったとしても説得力はなく、Jブランチャードは「よく来てくれた」と大歓迎だったと思います。
チャボは81年2月27日テキサス州ヒューストンで今回一緒に来日するGヘルナンデスに敗れてベルトを奪われましたが3月20日に同所でGヘルナンデスを破って王座を奪い返しています。
同じテキサス州内に居を構えるアマリロのファンク一家、エルパソのゲレロ一家は父親同士の時代から家族ぐるみの付き合いがあり、75年7月のチャボの全日本プロレスへの初来日もドリー・ファンク・ジュニアのブッキングによるもの。
5月のアブドーラ・ザ・ブッチャー新日本プロレス移籍の報を聞いたチャボはドリーを通じて馬場に売り込みを掛け商談成立。馬場としても前年まで藤波辰巳、木村健が巻いていたNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級のベルトを持ってチャボが来てくれれば一石二鳥とばかりチャボをベルトごと引き抜くという荒技に出て、新日本プロレスにダメージを与えるのに成功しています。(この項続く)
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