第180戦、4月7日発売号○【予想、正解】日本プロレス復帰の猪木が観客の前で挨拶(67年日本プロレス後楽園ホール)
【解説】力道山死後の64年3月、初のアメリカ武者修行に出発した猪木はハワイ・ホノルルでのプリンス(キング・カーチス)・イヤウケア戦を皮切りに、ハワイ、カリフォルニア地区、ミズーリ州、カンサス州といったNWAセントラルステーツ地区、オレゴン州ポートランドを中心としたNWAパシフィック・ノースウエスト地区、ワシントンDC、テキサス州、テネシー州と転戦し、66年3月の「第8回ワールド・リーグ戦」に凱旋帰国する為に、最後ハワイに寄り、馬場、吉村道明、沖識名レフェリーらと合流して、合同トレーニングを行なう予定でいました。
前65年末、私的なギャンブルに会社の資金を流用したことで、力道山の後日本プロレスの社長に就任していた豊登が、公金横領したとして日本プロレスを除名・追放処分にされていましたが、豊登は新団体設立の為に動き、ハワイまで出向いて猪木を自分の作る予定の新団体に勧誘。
豊登は既に、田中政克(忠治)、北沢幹之(高崎山三吉、魁勝司)、齋藤昌典(マサ)、木村政雄(ラッシャー)らに声を掛け、国内で新団体設立の地固めをしていました。
豊登と猪木の仲の良さは日本プロレスの中でもよく知られており、豊登が新団体設立に向けて動いていることや、猪木が豊登と合流して新団体設立に加担するのでは?という情報が日本プロレス内でも錯綜しており、猪木は吉村、沖識名らの態度によそよそしいものを感じでいたようです。
また、日本プロレスの外国人レスラーのブッカーをしていたミスター・モト(チャーリー岩本)からは猪木の「第8回ワールド・リーグ戦」のファイトマネーを外国人と同様に週給ドル建てで支払うと伝えられており、「日本に帰るのに何でだろう?」と頭の中に疑問が生じていました。
猪木の胸の内には日本プロレス側の対応が自分の思っていたものとは違い、日本プロレスに対する不信感が募って来ていました。
このタイミングで3月21日、ハワイのパゴダホテルに猪木を呼び出した豊登は、「このまま日プロに帰ったところでお前はずっと馬場の下だ。俺の団体に来ればエースはもちろんのこと、社長にしてやる。お前で日本一、いや世界一のプロレス団体を作ろう」と殺し文句を連発して猪木を勧誘、猪木は豊登の甘言の前に陥落させられ、日本プロレスには戻らず、豊登と行動を共にすることになりました。これがいわゆる「太平洋上猪木略奪事件」です。
帰国した猪木は4月23日には新団体「東京プロレス」設立を発表、新宿区柏木町に事務所を構えました。
旗揚げ「ビッグ・マッチ・シリーズ」は10月12日、蔵前国技館で開幕。ジョニー・バレンタイン、ジョニー・パワーズ、ザ・ヘラキュリー、ラッキー・シモノビッチらの外国人レスラーが参戦、開幕戦のメインイベントでは猪木はバレンタインとシングルマッチを行い、31分56秒にリングアウト勝ちを収めています。
しかし、東京プロレスは日本プロレスからプロモーター達に圧力がかかり大会中止が相次いで信用を失い、次の「チャンピオン・シリーズ」を最後に単独での興行開催が不可能となりました。
翌67年1月、66年10月に日本プロレスを退職した吉原功と在米フリーのヒロ・マツダが中心となって設立された国際プロレスとの合同興行で再スタートを切り、アメリカでタッグを組んだ猪木&マツダ組が実現しましたが、こちらも1シリーズのみで頓挫。
猪木は当時日本プロレスを後援していたスポーツニッポン新聞社の宮本社長の仲介で川島正次郎日本プロレスリングコミッショナーに繋いでもらい4月6日に日本プロレスへの復帰が決定。
他に北沢、柴田勝久が日本プロレスに復帰、東京プロレスでデビューした永源遙も日本プロレスに入団を果たしています。
翌4月7日、後楽園ホールでの「第9回ワールド・リーグ戦」開幕戦、猪木が世話役の九州山に先導されリング上にスーツ姿で登場、ファンに挨拶しています。
この後の入場セレモニーで馬場がワルドー・フォン・エリック、ブッチャー・バションに襲撃されましたが、控室に戻っていた猪木が救援に入りました。ここから日本プロレスにBI砲の時代が到来することになる訳です。
※対戦成績は180戦36勝144敗、勝率200。
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