85年1月25日、徳山市(現周南市)体育館大会(観衆2500人発表、テレビ生中継)のメインイベントでは、猪木がアブドーラ・ザ・ブッチャーとの3年ぶりのシングル戦を行いました。
ブッチャーは全日本プロレス潰しの為、81年5月、新日本プロレスが引き抜きを敢行。これにより全日本との間に仁義なき引き抜き抗争が勃発したのは既に何回も書いてきた通りです。
さらに新日本プロレスは当時全日本のナンバー3にいたタイガー戸口を引き抜き、心臓部に風穴を開けて見せました。
これに対し怒った馬場も日本テレビの資金援助を得て7月には猪木のライバル、タイガー・ジェット・シンを引き抜き返しました。
8月にはディック・マードックが新日本へ。チャボ・ゲレロが前80年11月3日、新日本の蔵前国技館で木村健吾を破って獲得したNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座のベルトを手土産に全日本へ移籍。
8月末にはハルク・ホーガンの10月全日本移籍が一度は発表されたものの、ホーガンは新日本に全日本からの条件を呈示してギャラアップを要求、これを呑ませて新日本に残留しました。
しかし、全日本の12月13日、蔵前国技館に新日本の強さの象徴だったスタン・ハンセンが姿を現し全日本へ移籍。
馬場はシンとほぼ同時期にハンセン攻略に成功、ハンセンと新日本の契約が切れる12月を待って最後に逆転満塁ホームランを打ったかのような感じで投入。
誰の目から見ても仕掛けられた馬場の大勝利で引き抜き抗争は幕を閉じました。
ブッチャーの間を重んじる流血を中心としたプロレスとスピーディーに間断なく動く新日本のプロレスはスイングせず。
81年6月24日、蔵前国技館での新日本デビュー戦は猪木がダスティ・ローデス来日キャンセルに伴いパートナーに指名した凱旋帰国の谷津嘉章をハンセンと組んでのタッグマッチでなぶり殺しにしました。
7月3日、後楽園ホールで開幕したサマー・ファイト・シリーズから本格的に参戦。バッドニュース・アレンとの黒い軍団で暴れましたが、猪木とはタッグ対戦にとどまり、シングルでは坂口、藤波とは対戦しましたが、最終戦の8月6日、蔵前国技館では猪木とのシングルマッチは組まれず。
10月の闘魂シリーズに来た時も猪木が国際軍団のラッシャー木村との対戦を優先させてまたもシングルマッチは実現しませんでした。
最終戦の11月5日、蔵前国技館ではブッチャー、アレン組vsディック・マードック、ディノ・ブラボー組との対戦が組まれました。
しかし、アレンが10月31日、酒田市体育館で負傷し蔵前を欠場することになった為、最終戦ではリング上でブッチャーがマードックかブラボーのどちらかを指名してシングル戦を行うことになった訳です。
観客は当然、この時が初来日のブラボーより実力者のマードックとの対戦を希望し、館内からは「マードックコール」が起きました。
しかし、ブッチャーとマードックは72年3月に日本プロレスの第14回ワールド・リーグ戦に一緒に来日した時から犬猿の仲。
と言ってもマードックがブッチャーを嫌っていて、元々、黒人差別主義者でありKKK(クー・クラックス・クラン、黒人迫害同盟)のメンバーだと公言していたマードックはレスリングも出来ないのに全日本で自分より上のポジションにいるブッチャーに不快感を現していました。
馬場はそれを知っていた為、両者に配慮したマッチメークを行っています。
マードックが全日本のレギュラーとなった73年10月の創立1周年記念ジャイアント・シリーズから、最後のシリーズとなった81年2月のエキサイト・シリーズまで、一緒に呼んだのは3回。
75年11月のジャイアント・シリーズ第2弾&オープン選手権(ブッチャーはジャイアントS第2弾には終盤戦特別参加し共にオープン選手権に残留)76年11月のスーパー・パワー・シリーズと80年10月のジャイアント・シリーズのみ。
75年は対戦なし。76年は12月2日、川崎市体育館で行われたテレビ収録用のヘビー級バトルロイヤルで1度同じリングに立っただけ。
80年はテリー・ファンクが引退会見を行ったシリーズですが、マードックは離婚調停で精神的に大きなダメージを食らって来日出来なくなったドリー・ファンク・ジュニアの代わりにテリーをサポートする役割でした。
よって対戦しない訳にはいきませんでしたがタッグマッチに留まり、シングルマッチを組むことはありませんでした。馬場にはそういう優しいところがあったのです。
ログインしてコメントを確認・投稿する