84年ブラディ・ファイト・シリーズは8月24日、後楽園ホールで開幕。
ロジャー・スミス、デューク・マイヤース、トニー・セントクレアー、スコット・フェリス、ジェリー・モローの外国人選手がシリーズ全戦参加。
シリーズ序盤戦(8月24日後楽園ホール〜9月3日柏崎市スーパーこたや駐車場特設リング)にボブ・バックランド、中盤戦(9月7日福岡スポーツセンター〜12日三原市リージョンプラザ体育館)にアブドーラ・ザ・ブッチャー、同じく中盤戦(9月4日秋田県立体育館〜20日大阪府立体育会館)にグレッグ・バレンタインが特別参加しています。
当初バレンタインと同じ予定で特別参加が発表されていたハルク・ホーガンはWWFのスケジュールの都合でキャンセルされています。
また、新日本初参戦となる予定だったイワン・ストロゴフ(70年3月、73年1月国際プロレスに来日、69年5月パリで新設されたIWA世界タッグ王座決定トーナメント決勝にモンスター・ロシモフ時代のアンドレと出場し豊登、ストロング小林組に負け)も来日中止となりました。
新日本にとって痛かったのはホーガンの来日キャンセルで最終戦の9月20日、大阪で猪木との試合を実現するべく動いていたものの、ビンス・マクマホンWWF代表との交渉が不調に終わりました。
7月に猪木がMSGでの試合出場も兼ねてビンスと交渉にあたったのは既に書いた通りでしたが、猪木達がパキスタン遠征をしている間、坂口副社長が渡米してビンスと会談しており、ここでもビンスの反応は悪かったと思われます。
シリーズ全戦参加の外国人選手では常連のセントクレアー以外、初来日もしくは新日本初参戦組ばかりで、WWFカラーがかなり薄くなりました。
新日本初参戦となるRスミスは先のパキスタン遠征に続いての参加となりましたが、76年7月、国際プロレスにマスクマンのスーパー・アサシンとして1度だけ来日。
7月31日、越谷市体育館で負傷した(新日本移籍が決まった為のギミックが濃厚)上田馬之助の代打としてラッシャー木村とIWA世界ヘビー級王座決定戦(金網デスマッチ)に出場、逆エビ固めで負けていますが扱いはエース格でした。
前シリーズに参加したリック・オリバーの推薦で来日が決まりました。
初来日のベテラン、マイヤースはカナダ・カルガリーで試合をしていた中堅選手で、私は75年初頭にプロレス誌のカラーグラビアでその存在を知りました。
当時はアラバマ、ミシシッピー、アーカンソーといったガルフコースト地区で活躍しており、ベビーフェイスであるケン・ルーカス(未来日)との抗争展開中で、リップ・タイラー、エディ・サリバンの流れから国際に来るかと思われましたが来日の機会はなく、この時ようやく初来日していますが、全盛期は過ぎており、来日は10年遅かったと言えました。
セントクレアーは前83年ブラディ・ファイト・シリーズ以来1年ぶりの来日。前回はテレビマッチのメインにも登場し試合ぶりも安定。
初来日のフェリスはカルガリーを主戦場にしていたマッチョマンタイプの28歳の若手でダイナマイト・キッドの推薦で来日が決まりました。
7月に新日本の顧問に就任した元国際プロレス代表、吉原功の口利きによりモロー(稲妻二郎)が新日本へ。
モローは80年にカナダ遠征に出て、現地で結婚し生活の拠点をカナダに移していましたが81年に国際の崩壊をカナダの地で聞き帰るリングを失いました。
かつての兄弟子、マイティ井上や私生活ではウマの合った鶴見五郎、カルガリー修行時代面倒を見た阿修羅・原達がいたこともあり、83年7月の全日本プロレス、グランド・チャンピオン・カーニバルPART�靴縫皀蹇爾離螢鵐哀諭璽爐罵萋�。
次のスーパー・パワー・シリーズにも連続参戦、この年2月のエキサイト・シリーズにも全日本に来たばかりでしたが、「日本のお父さん」と慕っていた吉原氏の新日本顧問就任で新日本へ鞍替えしました。
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