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2019年11月27日01:25

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信長包囲網なんて嘘でしたね

○室町幕府の第十五代将軍「足利義昭」は、信長によって追放されてしまったのち、毛利家の保護を受けて、備後国(広島県)に落ち着いたそうです。天正十年当時も、そこにいたものと見られます。ただし義昭は「再び京へ戻って、将軍の地位を復権すること」をあきらめてはいなかったという話。各地の勢力に働きかける手紙が残っていて、そのいくつかは、私も翻刻で読んだことがありますね。そうして義昭が「復権を画策する」際に、信長の対抗勢力を連携させた「信長包囲網を作った」という説があるわけですよ。ちなみにこれは、「義昭が京都にいて、名実ともに将軍だった時期」の「信長包囲網」とは、また別の話です。区別しやすいように、京都時代の「元亀包囲網」と、備後時代の「天正包囲網」と言っておきましょうか。通説の「元亀包囲網」を肯定している歴史学者でも、のちの「天正包囲網」のほうは、否定する方が少なくありません。しかし「義昭黒幕説」を主張なさる教授は、「天正包囲網」を肯定してらっしゃるわけなんですね。

●四月六日「武田勝頼の吉川駿河守宛」
「正月廿五日之芳墨今月五日到着、具披読。仍荒木摂津守信長敵対、貴国一味以来至摂泉両州諸卒被立懸、輝元二月五日出張、海陸之行無御油断之由肝要候。然者当方尾濃口手合事、度々如申遣候、聊不可有用捨候。幸西国平均、彼表無異儀之上者、太坂并荒木儀堅固之内程近被打寄、公儀御入洛、太坂荒木被引救、可被属五畿内静謐儀、悉皆不可如貴辺諫言候。委釣閑斎、跡部大炊助可申候。恐々謹言」

○宛名の吉川駿河守元春は、毛利輝元の叔父です。この手紙が「武田と毛利の連携があった証拠」であり、備後時代の義昭が「天正包囲網を形成していた証拠」だそうです。では、読んでみましょうか。まず「芳墨」なんて気取った言い方をしていますが、要は手紙のこと。吉川が一月二十五日付で送った手紙を、四月五日に受け取って、「具披読」で「ていねいに細部まで読みました」と武田が返事を書いたもの。次の「仍」は接続詞で「細かく読んだから、以下の内容をよく理解しました」の意味となります。つまり、吉川のほうから武田に連絡してきて、以下の内容を伝えたのです。信長配下の「荒木摂津守村重」が「信長に敵対」したこと。「貴国」は毛利のことで「一味」は「荒木に味方した」意味。それ「以来」の毛利の行動は、「至摂泉両州諸卒被立懸」ですから「摂津と和泉の二国に兵を投入している」意味。さらに「輝元二月五日出張」で、二月五日には「輝元も出陣する予定」の意味です。だって一月に書かれた手紙の中に、未来の「二月の出陣」が「実行した過去」として書いてあるわけがないじゃないですか。だから武田は「手紙の到着が四月なので、きっと二月の出陣は、やったはずだ」という想定で返事を書いているわけです。次の「海陸之行」は「海と陸、両方の軍事行動」の意味。それを「無御油断之由肝要候」で「ご油断は当然ないでしょう」です。

○次の接続詞「然者」は「しからば」と読みます。前の文章と、次の文章を対置的につなぐ感じ。毛利が「摂泉に出陣」ならば、「当方」武田は「尾濃口手合」で「東美濃に出て、織田に仕掛けるってことですね?」という感じの意味になるでしょう。次の「度々如申遣候」は「何度もお答えしているとおりですよ」で、続く「聊不可有」は「少しも〜するはずがない」の意味。そして「用捨」は「用いることも、捨てることも」なので、要は「使うか、捨てるか、考える」こと。だから文意としては「前に返答したとおりで、考え直すことはしません」です。

○ここまでを読みますと、なるほど「毛利と武田は連携しているぞ」と思えてきますよね。しかし問題は、このあとなんです。「幸西国平均」幸いにも西国は平定したので「彼表無異儀之上者」西には問題がなくなったのだから「太坂并荒木儀堅固之内」大坂本願寺と荒木が堅固に構えているうちに「程近被打寄」すぐ近くまで兵をお進めになって「公儀御入洛」公方様の御入京も「太坂荒木被引救」大坂と荒木の救援もなされて「可被属五畿内静謐儀」五畿内を平穏の中に置いてしまわれるべきことを「悉皆」どれもこれも、という内容を書いたうえで、末尾の文章「不可如貴辺諫言候」です。そして「詳しくは釣閑斎と跡部大炊助、手紙を届ける二人の使者が話すでしょう」なわけ。この文章で、何を言っているの?

○前述したように「一月の手紙」に書いてある「二月の出陣」は「予定」です。しかも、一読では「輝元が大坂方面に出陣する」ように思えるでしょうが、実際は「西国平定のための別方面への出陣」のことなんです。よって武田は「二月に出陣して、今は四月なんだから、当然もう西国平定は終わりましたよね?」と言っているんです。さらに「だったら次は大坂方面、本願寺と荒木の救援に行くんですよね?」と言っているんです。そして最後の「不可如」は「しくべからず」と読んで「匹敵するものが、あってはいけない」の意味。「貴辺」は「あなた」で、「諫言」は「主君をいさめる忠告」なので、要するに「吉川さん、あなたの諫言に勝るものはないはずで、だから輝元に、これらのことを言って、ちゃんとやらせなさいよ。武田の出陣は、それからです」と、遠回しに拒絶している意味。

○「返書」を読んで、「相手方の手紙」の内容を推定できますか?「吉川の言い分」は「西国で出陣するから、荒木の支援には行けない。だから時間稼ぎのために、武田が織田に仕掛けてくれ。そうすれば、織田も荒木のほうに兵を集中できなくなる。こちらも終わり次第、大坂方面に出るから」という感じ。すると武田は「冗談じゃない。あんたたちが先に織田へ仕掛けろよ。そしたら手伝うって何度も答えたはずだよ」と冷たい返事。これのどこが「包囲網の成立」なんです?

○ついでに言いますと「元亀包囲網」も、こういう「手紙の読み違い」でしたね。
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