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2019年04月05日01:35

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合戦考証37「知らぬが仏」島原の乱

○前回に、忠興の返書で「江戸の状況」を見ました。さすがに忠興はハッキリした言葉で書きませんでしたが、原城攻めの報告を受けた将軍が、どうも激怒している模様。それを知らないままで、忠利はほかにも三月中に手紙を書いています。

○忠興が三月十日に江戸へ到着しますと、江戸の留守居役が「御無事に到着なさいました」の報告を送って、それが熊本に届いたのが二十三日。すると忠利は、長い手紙を書いたのです。箇条書きではないので、一気に逐語訳してみましょう。

●忠利九二八「3月23日」
「三月二十三日に、江戸へ御無事に御着きになったこと、留守居たちが伝えてきて、めでたく思いました。まずは飛脚で申しあげます。もう御加減もよくなられましたでしょうか、教えていただきたく思います。ところで、有馬からの報告ですが、豊後横目衆へも申し伝えましたのと同じ(内容)で、少しも間違いはございませんので、御気遣いはなさいませんように。私の手紙では、各軍のことは存じませんので、自分のことばかりを書いてきたと(忠興様が仰せだったと留守居が)申しました。早いも遅いも、各軍の備えごとに横目が付いておられて、存じておられます。その軍の(攻め)口ごとの事情で、それぞれ(の場所)において一番、二番と言いましても、事実はわからないと思い、周囲へは一切、一番乗りなどとは言わないようにしておりました。二十七日に、三ノ丸、二ノ丸、本丸まで、二十七日の酉の刻に乗り込み、ただちにその晩、当家の先手が本丸に柵を付け、その夜から二十八日の午の刻まで(そこに)おりましたのは、紛れもないことです。四郎の家を焼き、すぐに首をこちらで取ったというのも、四郎の首であるのは紛れもないことです。二ノ丸は鍋島軍から始まりまして、榊飛親子が一番乗りだと伺っております。早くに火をつけたがため、奥へ兵を入れることが、入口が狭くてできずにいたところへ、当家の兵が二ノ丸へ入り、すぐさま二ノ丸を焼き、本丸へ達しました。鍋島軍の状況は二十八日に伺いましたが、二十七日では知りうることではなかったのです。二ノ丸へは、ともかくどこよりも鍋島軍が早くに入ったはずです。また、当家の負傷と死者の目録は、お届けした覚えがございますが、名前、名字を書きましたかどうかをうろ覚えなので、主馬のところへ書付けを送りました。(氏名の書付けが)来ていないようなら(主馬のを)御覧になってください。詳細は主馬にあらかた伝えてあります。また、四郎の掟書きを書き写して御目にかけます。これも前にお届けしましたかを覚えておりませんので、主馬へ送ってあります。このたびの状況は、当軍では馬場三郎左衛門が御横目役で、すぐに本丸に乗り込みました時、三郎左が自筆で報告状を豊後へ送りましたのを、私も見ました。そのうえ伊豆殿、左門殿の前で、二十八日の晩に井上筑後もおられまして、そのほか諸家の目付衆もおられる中で、当家(に関する)報告状どおりに(三郎左が)申されました。当然この衆の中で、三郎左衛門の言葉に間違いがある(と言う者がいる)なら、今ここで話してくださいと(三郎左が)申されましたが、横目衆は一言の異論もなかったのです。城というものですから、裏や表で誰が早かったのか、どのようにしても知りようがないことです。しかもあとさきのことは、横目衆や伊豆殿、左門殿へ(各家から)報告があって、そのうえで吟味があって(江戸へ)御報告になるべきことですから、それぞれが自分から遅いの早いのと申しあげられないことと思い、私は伊豆殿、左門殿の前でも、ついに自分が早かったとは言いませんでした。しかも当家のあとから伊豆殿、左門殿は(城へ)入られて、子たち、また身内衆も、それぞれで当家の先手へ参加していましたから、当家が遅いも早いも、御両人はよく御存じであるはずで、当家が豊後へお伝えしました報告状のとおりで、少しも間違いがあるはずもありません。また、三浦殿が参られて、本丸は二十八日の午の刻に終わりましたと申されたので、私の手紙と違うように理解した者たちがいることを主馬が申し伝えてきておりますが、三浦殿が申されましたとおりで、偽りではないのです。本丸の詰めの丸は二十七日に焼きまして、二十八日の卯の刻に四郎の家まで焼きましたので、火の入らなかった出丸へ残党が集まり、二十八日の昼まで諸家が寄り合って、殺しました。番を致された衆は、二十八日から二十九日まで取巻いておられて、焼け跡または穴の中にいた者を処分していったと伺っておりますので、二十九日まで本丸に手をかけていたと言っても、嘘にはなりません。きっと肥後が参りまして、説明致しますでしょう」
追伸「なおなお、島田の下からの、三月六日の御手紙も届いております」

○この手紙の内容を、単体で理解するのは無理でしょう。忠興の返書がありますので、そちらと合わせて読みますと、およその事情が判明するんです。次回に忠興の返書を出して、事情を見ていきます。とにかく最低限の解説をしておきます。

○この手紙で最も理解が難しいのは、終わりのほうにある文章「三浦殿が参られて、本丸は二十八日の午の刻に終わりましたと申されたので、私の手紙と違うように理解した者たちがいることを主馬が申し伝えてきておりますが、三浦殿が申されましたとおりで、偽りではないのです」のところ。原文は「三浦殿被参、本丸は二十八日午之刻に済候と被申候故、我等状と相違之様に心得候衆御座候と、主馬申越候、三浦殿被申候通、偽にて無御座候」です。文中の「主馬」とは、熊本藩の江戸留守居役「加々山可政」だそうです。彼が熊本に「相違之様に心得候衆」がいることを伝えてきたのですが、問題は、その前の「三浦殿被参」で、三浦が「どこへ参られた」のかは書いてないんです。これを「現地で忠利のところへ来た」とするか、それとも「江戸の屋敷に来た」とするかで、意味が逆転してしまうんです。逐語訳では「忠利のところへ来た」の条件で訳してあります。

○最後に蛇足です。二月二十七日の「城乗りの最中」に、忠利が送った「九二一番」を、忠興は江戸へ行く途中の「静岡県」で受け取って、三月六日に二通の返書を送っていました。あとから出した「一五一五番」は、三月十七日に熊本へ届いていましたが、先に出した「一五一四番」は遅れて、やっと今ごろの到着です。
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