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2018年08月19日00:23

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本史関ヶ原117「石田の合戦能力値」

○「本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦」で、解析してきた史料データ。そこから廟算を重ねたことで、廟算値は次第に解析データと一致してきました。まず、吉川広家の立場で廟算した場合、吉川の想定は「南宮山の前に出て、裏に後詰めを配置する」ことでした。これにより「なぜか稲荷山に布陣がなく、中仙道があいていた」ことにつながりました。次に小早川秀秋の立場で廟算すると、高宮に残って後方任務をしていたのが「急に前線に出てきた」際、あえて「関ヶ原を避けて、松尾山の裏を通り、東の尾根に着陣する」ことで「徳川家が秀秋の意図に気づき、味方にするための誓詞を送った」ことにつながります。しかし秀秋が、このような「不可解な行動」をとったなら、当然のように「味方が不審に思う」はずなので、石田三成のほうが先に「後詰めの位置を離れ、山中に陣を下げた」と仮定してみたわけですね。これで「秀秋が前線に出てきた」ことも「秀秋が不審な行動をとった」ことも、つじつまが合ううえに、結果的に「関東側が関ヶ原へ進出できた」ことにもつながります。全部のデータと一致ですね?

○ゆえに問題は「石田の行動」です。なぜ石田は「陣を下げた」のでしょうか。しかも「南宮山の向こう側へ、味方が後巻きに出ている」最中に…。

○改めて「吉川の想定」を確認しましょう。少数兵力で後巻きに出たうえ、稲荷山をあけています。敵が「稲荷山を取りにきた」なら、南宮山の裏に配置された後詰めが叩きに出ればいいわけです。敵が攻勢に出なければ、後巻きを撤収します。そのとき「敵が追撃にくる」なら、後詰めと一緒に迎撃すればいいし、「追撃してこない」なら、山中に布陣して、敵の進路を塞いでしまえばいいんです。敵には「丹後救援の目的がある」ため、大垣城の受取り後、中仙道を進んでくるでしょうが、山中で防衛に徹し、敵が進めないようにしてやれば、敵は退却するしかなくなります。そのとき「総追撃で叩いてやればいい」わけです。

○さて。以上の「想定」を見て、何か気づきますでしょうか?「吉川の想定」の中における石田の役割なんですが、あえて展開を逆から見ていきます。山中に全軍が布陣して「関東側の進軍をはばむ」場合には、石田も宇喜多も、そして吉川も「防御に徹して、いざという瞬間に総追撃する」のは同じです。では、後巻きの吉川が下がってきて、それを敵が追撃してきたときに、迎撃するのは誰でしょうか?「石田と吉川」ですよね?「問題」は次です。後巻きの最中に「敵が稲荷山を取りにきた」とき、応戦に出て「叩く役割」は、誰なんでしょうか?

○おそらく「ここ」なんですよ。「吉川の想定する後巻き」では、石田のリスクが大きいんですね。「攻める合戦」で、最初から最後まで「突撃戦闘の乱戦しか考えようのない人」たちには、ピンとこないのでしょうけどね。「山中に全軍が布陣」なら、高台に築いた陣地の中にいて「防御するだけ」です。敵の追撃を誘うなら、待ち伏せて「迎撃する」んです。しかし「稲荷山を取りにくる敵」を叩くなら、平地で戦闘になるんです。石田に「その経験」はあるんでしょうか?

○たとえば「二世大名」は、合戦を「攻めないものだと知ってはいる」が、手詰まりになって対応できなくなると、ついつい「攻めちゃう」と私は書きました。これに対して「三世大名」は、合戦を「基本的に攻めないものだということも知らない」んです。とはいえ、これは単純に世代の話ではありません。例をあげますと、細川幽斎、その息子の忠興、孫の忠利の細川家三代。世代的には二世の忠興ですけども、少しなら「信長時代の合戦」も経験していて、戦術を理解しています。しかし忠利は「大坂冬の陣」しか参戦経験がないせいで、島原戦争では典型的な「二世大名」の失策を犯すんです。一方、黒田如水、その息子の長政、孫の忠之の黒田家三代。世代的に二世の長政は、忠興と同様に戦術を理解していますけど、島原戦争での忠之は「三世大名」の失策を犯すんですよね。

○私が以前に「関ヶ原合戦のマンガ監修」をしたときは、石田を「三世大名」レベルに設定しました。「優秀な官僚」と評されてきた石田ですが、まともに合戦経験があるとは思えなかったんです。もっとも「そんなふうに思えた」のは、後世に偽造史料を書いた作者のせいでしたけどね。ていねいに時間をかけて史料精査をして、合戦展開を解析してきた結果、実際の石田は「一世大名」のレベルだったと見るべきようです。ただし「完全に一世大名クラスと言えるかどうか」の疑問点があります。合戦の戦術も、進化し、発展し、変化しているんです。すなわち石田は、過去の「古い戦術」まで、きちんと知っていたのでしょうか。もちろん「秀吉時代の合戦」なら実地に見て、理解していたでしょう。しかし「信長時代の合戦」を、もっと言えば「長篠以前の戦術」を理解していたでしょうか?

○変なもんですが、後世に偽造史料を書いた作者たちは「攻めることを考えるばかり」なんです。だから現代の「歴史解釈」ですら「攻める合戦」でしかないんです。「陣地の中にいて、防御に徹して、敵が諦めて退却するところに、総追撃をかける」なんていう「戦い方」は、ちゃんと『信長公記』に書いてあるにもかかわらず「誰も知らない」ようなありさまです。けれど石田は反対に、「防御に徹して、総追撃を狙う」戦術だけしか、知らないかもしれないんですよ。少なくとも、そういう「追撃戦」しか「経験したことがない」かもしれない可能性…。

○吉川広家なども世代的には「二世大名」ですが、長篠以前の古い戦術も理解しているだけでなく、経験もあるのではないかと思います。つまり、基本的に防御に徹する「攻めない合戦」であっても、時には「平地での戦闘駆け引き」が起こることもあるんです。そこまで熟知している者を「一世大名」として、古い時代の戦い方は、実戦経験もなければ、理解もなかった者を「一・五世大名」とした場合、まさに「石田がそうなのではないか」と考えるわけです。だとすれば、石田にとって「稲荷山を取りにくる敵を平地で叩く役割」は重荷だということ。なのに石田が「その役割を担う」んです。もしも本当に「ここに問題があった」のなら、吉川の戦術想定には「ほころびがあった」ことになってきませんか?
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