mixiユーザー(id:33884029)

2018年07月17日11:42

43 view

リズム論(その23)

リズム論(その23)
第2章 中村雄二郎の「リズム論」 (その15)
第3節 「リズム論に基づく生活」について(その2)

1、リズム論に基づく生活とはどんな生活か?(その2)

(1)文部省唱歌を歌うこと。

音楽がリズムであることは言うまでもない。したがって、音楽を聴き楽器を奏でることをしょっちゅうやっている生活はリズムに満ちた生活であり、大変良い。しかし、私としては、歌を歌うこと、とりわけ文部省唱歌を歌うことをお勧めしたい。文部省唱歌を歌うことによって、日本人としての感性がしっかり養われると思うからだ。

言霊ことだまというのがある。「ことだま」については、梅棹忠雄はその著「美意識と神さま」のなかで次のように述べている。すなわち、
『ヨーロッパ人が言語的心霊主義者であるとすれば、日本人は、言語的無神論者である。日本人にとっては、言語をどのようにもてあそんでも、たたりもなく、害もない存在である。俳句のような言語遊戯が、民衆の、もっともポピュラーなあそびとなるゆえんである。俳句は、とにかくにもひとつの詩であろうが、そこには、詩神のやどり場所もない。』
『「ことだまさきはう」古代から、言語喪失の現代までのあ
いだに、何が、どう変化したのであろうか。』
『「ことだま」のやどり場所としての言葉というのは、じつは音声言語のことではないだろうか。声が大事なのである。』
『「のりと」はすべて、よみあげなければならないし、場合によっては、大声をだすだけでもよい。』
『スコットもバイロンも、自作の詩を劇場のステージに立って、朗々と朗読したのである。その伝統は、いまなおヨーロッパ各地にいきている。』・・・と。

大声で歌うことの重要性を強調しておきたいし、古代がそうであったように、和歌を大きな声で謡うことの重要性を指摘しておきたいのだ。是非、地域のおける「ことだま」を復活させよう。「リズム」は文化である。
言の葉(ことのは)という言葉は、古代語であり、単に言葉という意味で使われたり、和歌のことであったりした。私は「ことだま」が「こと」であり、それには神が宿っているのだと考えている。「ことのは」が言葉という意味で使われるときは、「は」は端(はし)の意味であるから、神が宿っているようなことはない。しかし、「ことのは」が和歌を意味する場合は、「言霊」のことであり、神が宿っている。したがって、和歌は、声大きく謡って神と交信するのである。お題目を大きく唱えるときも神との交信があり、禅宗の修行僧が托鉢のとき「おーー おーー」と唱えるときも神との交信がある。

ここでは、話の都合上、言の葉(ことのは)を広義に解釈し、和歌に限らず、作詞家によって選び抜かれた言葉とする。神に捧げる言葉、そんなニュアンスを持った心に滲みる歌を歌いたいものだ。一応、ここでは言の葉(ことのは)には神との交信があると考えて貰いたい。

文部省唱歌は、現在の言霊ことのはかもしれない。心を込めて歌っていると、神との交信があるように思う。歌に関しては、少し思うところがあるけれど、今ここでは、以上のことだけを申し上げておきたい。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する