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2017年09月21日01:53

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本史関ヶ原36「輝元の猪山攻め」

○本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦、蜂須賀家政の猪山城に向けての出陣命令を出したこと。ここから推定できる状況を詰めていきます。

●四四号一番7月29日「差出」長束、増田、前田、毛利「宛」佐波広忠
●四四号二番7月29日「差出」毛利輝元「宛」佐波広忠、村上元吉、村上景親

○定説の中に「猪山攻め」はありません。徳島藩の公式記録では「家政が西軍で出陣した」となっているからでしょうね。石田三成の偽書手紙「五八号一番」には「家康を迎え討つための陣立て」なるものが添えられていて、家政は「大谷吉継が率いる北陸方面軍」に名前が記されているくらいです。なのに「村上水軍が猪山城を激戦で攻め落とした」という話が、村上水軍の伝承の中にあるんです。これでは「味方の城を攻め落とした」ことになっちゃいますので、定説だと「猪山攻めは後世の創作だ」と切り捨てるし、一方で村上水軍「だけ」に着目する本は、関ヶ原合戦の全体を無視して「猪山を攻め落とした」と「伝承をそのまま書く」わけです。このように、「対陣があった」とした場合は「殺し合いの戦闘があった」ことにされてしまうし、「殺し合いの戦闘がなかった」のであれば「対陣そのものがなかった」とされてしまうんです。江戸時代に書かれた記録史料でさえ、こうなんです。「戦闘衝突することだけが合戦だ」と思っているせいです。

○合戦において重要なのは、地形と位置関係。蜂須賀家政の居城「猪山城」は、後に整備された「徳島城」と位置は同じですので、北から東へ吉野川が流れ、東から南へ海岸線。西には眉山がそびえます。四四号一番に「山上山下のほかに陣取りをしてはならない」とあるのは、この眉山を指しているわけでしょう。よって包囲軍が布陣するのは「城の西側」です。ならば救援軍は、どこから来る?

○徳島の北、香川の生駒親正は「病気だったので、代理の家老が西軍で出陣したが、息子の一正が東軍に参加したため、戦後は隠居で許された」という話。まったくもって「蜂須賀と似た話」ですけども、まだ少年の蜂須賀至鎮と違って、生駒一正は出陣経験もある三十代。おそらく父の親正は、大坂屋敷で本当に病気療養中だったのでしょうし、ゆえに跡継ぎの一正が、家来を率いて会津出陣に出ていたのでしょう。そして愛媛の加藤嘉明、藤堂高虎が、会津出陣に出ていたことは手紙史料で確認できます。これらの三家では、国に残る兵力も少ないはずで、蜂須賀は彼らの救援をあてにできないわけなんです。すると残るのは?

●七三号一番8月20日「差出」島津惟新義弘「宛」本田(鹿児島)
●七三号二番8月21日「差出」島津惟新義弘「宛」吉田(大坂)

○島津義弘の手紙七三号は、一番が鹿児島の家老に、二番が大坂屋敷の留守居家老に宛てたもので、内容はほぼ同じです。この中で義弘は、高知の長宗我部盛親が「味方の側に参陣してくる」という伝聞情報を記しています。長宗我部は戦後に領地を没収されましたので、大坂の側で参戦したのは間違いないと言えるのですが、それすなわち「長宗我部は在国していた」ということじゃないですか。もしも蜂須賀を救援する者がいれば、それは高知の長宗我部で、「西から来る」ってこと。だから「城の西側に布陣する」わけです。もちろん「四国の長宗我部」なら、必要上「外洋船団を持っている」でしょうから、「城の東側」の「海を封鎖しておく」必要もあるでしょうね。すると四四号二番の宛名には、村上水軍が入っているわけですよ。史料記述は「合戦の実際」に合致していますでしょう?

○そもそも輝元が「伏見城を落とすにあたって、周辺の在国大名に意思確認をしたところ、蜂須賀が協力を拒否したので、七月二十九日に出陣命令を出した」のであれば、「在国していた長宗我部にも意思確認をした」となるわけです。徳島と高知では若干の「距離の差」がありますので、「長宗我部の返事はまだ届いていないが、蜂須賀が協力拒否を示した以上、制裁の出陣を決定した」と考えるべき。で、ここからなんですけども、物語の書く「戦闘だけが合戦」ならば、「長宗我部も拒否を示したら、高知にも出陣し、攻める」と考えてしまうんです。しかし実際の合戦は、「長宗我部も拒否を示した場合、どうせ長宗我部は蜂須賀の救援に出てくるから、徳島で戦えばいい」んです。だから「二十九日の時点」では「長宗我部の救援出陣」を想定した「西の山だけに布陣せよ」なんです。けれども長宗我部は「徳川と縁組している蜂須賀」と立場が違います。岐阜の織田秀信同様「輝元の協力要請に素直に応じる」可能性もあって、その場合「蜂須賀は四国に味方が誰もいない」ことになるわけです。それでも蜂須賀が「愚かにも籠城する可能性」は、決してゼロではないものの、可能性を言うなら「降参する可能性」のほうが高いのだし、だから輝元は「蜂須賀が降参しやすいように、無用な衝突が起こって関係がこじれてしまわないように、相手に配慮した定め書き」を書いているわけです。で、結果的に「長宗我部は味方」で、猪山攻めは「包囲布陣しただけで終結」で、輝元の想定したとおりになったようじゃないですか?

●五三号8月2日「差出」長束、増田、石田、前田、毛利、宇喜多「宛」真田信之

○もちろん定説でも本物と見ている五三号。ここには「伏見城を落としたこと」と「田辺城に仕寄を命じたので落城は時間の問題」の記述はありますが、「猪山城のこと」は何も書いてありません。「書いてないのは、徳島へ出陣してないからだ」と考えるのは早計で、五三号の書かれた「八月二日の時点」では「蜂須賀が降参するのか、籠城するのか、まだ結果が届いていない」と見るべきです。二十九日に出陣命令が出て、翌三十日に大坂を出港したと最短に見積もっても、旧暦に七月三十一日はありませんので、ようやく二日に上陸を開始したぐらいでしょう。つまり「まだ合戦になると決まっていないから、書いていない」と見るべきなんです。しかも、一日か二日には「長宗我部の返事が来ている」と思われます。「長宗我部も、蜂須賀に味方しない」と判明してしまえば、ますます「蜂須賀が降参して終わる可能性」が高まるわけで、輝元はすでに「猪山での包囲戦はない」と判断していて、だから五三号には書かなかったのかもしれません。だとすれば、伏見攻め、田辺の仕寄、猪山の包囲、これら三つの戦場は「八月二日の時点」で「間もなく全部終了」の認識だったはず。

○全部の戦場が消えてしまえば、次に輝元は、どうするのでしょう?「当然、東へ攻めていくのだ。現に吉川たち毛利軍は、伊勢の富田を攻めている」と考える定説は、典型的に「戦闘することだけが合戦」の理解で作られた解釈です。五三号の文面をよく読めば、実は「徳川との決別宣言のようだ」と、前に書いたわけですね。「秀頼様の御ために、われわれが日本国を統治する。家康は関東に引っ込んでろ」と主張しているような感じ。つまり「伏見も落ちて、田辺も落ちて、猪山が降参すれば、家康が救援に来る必要もないんだから、おとなしく田舎に引っ込んでろよ」ってことです。「いやいや、今度は家康が攻めてくる番だ。現に西へ進軍し、関ヶ原で大合戦をしたじゃないか」と考える人は、やっぱり「戦闘だけが合戦だ」と思っている証拠。輝元の認識では「田辺城も落とす」でしたけど、結果的に「田辺の包囲戦」は継続しちゃっているわけで、ゆえに家康が「救援に出てきた」ってことなんです。で、輝元の命令を無視して「田辺の包囲戦を継続させた」のは「裏で画策する石田三成だ」と、これも前に書きましたよね。

○ともあれ輝元は、これ以降の戦争を想定していないはず。この時期に「各地へ出陣要請を出す」はずもなく、きっと九州の加藤や島津へは、五三号の同文コピーを同日に発送しているのでしょう。そして五三号の末尾には「そちら方面のことは、堅固に支配を固められて、秀頼様への御忠節はこのとき」の記述。遠方にいる者へ「領国の統治を固めよ」と言うのみで、「出陣せよ」とは言っていないのです。
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