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2015年11月04日00:56

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関ヶ原史料「細川を成敗?」大坂決起三三号

○この手紙は、定説解釈において、無視されているものです。内容も定説の理解にまったく合わないし、何よりも、書いた人物がおかしいってわけですね。大坂三奉行の長束正家、増田長盛、前田玄以に、石田三成が加わった四人の連名。しかし三成は、まだこのころは裏方に徹していて、姿を見せるのは七月末だとされています。こんな時期から大坂にいるはずがないってこと。でも、この手紙は本物だと思いますよ。七月十七日付で、宛名は京都府綾部の大名、別所吉治です。

●手紙三三号「羽柴越中守は、なんの忠節もないのに、太閤様が御取立てになった福原右馬助の領地を、内府から受け取った。このたび、なんの罪もない景勝を討伐する内府に助勢して、越中守の親族一同、残らず行ってしまったことは、言うまでもないことだ。ゆえに秀頼公が御成敗となす。各人を派遣するので、軍忠をぬかりなきように。末端に至るまで、働きによって御褒美がくだされるだろう」

○原文の言葉遣いに不審な点があって、本物に見えない感じの手紙です。だとしても「これは本物だ」と言わざるをえません。理由が二つあります。もっとあとで書くことになりますが、「間違いなく本物だと考えられる手紙」にも「越中守の問題」は記述があるので、たとえこの手紙自体は偽書だとしても、この内容は無視できないこと。もう一つは、この内容を踏まえることで、はじめて「石田三成の計画」が、本当の合戦のかたちになるからです。

○羽柴越中守とは細川忠興のこと。七月十七日と言えば、定説解釈において、忠興の妻「ガラシャ」が死んだ日です。定説ではこうなります。「大坂城下の屋敷にいる大名の妻子たちを、城内に移らせて、軟禁し、人質に取ろうとした石田三成。ところが細川屋敷では、人質になることをガラシャが拒絶。キリシタンの彼女は自殺できないので、屋敷に火を放ち、家来に自分を殺害させた。この抵抗によって石田三成は、ほかの大名にも無理強いができなくなった。徳川に付いた大名衆は、おかげで妻子の心配をせず、存分に戦うことができた」という話ですね。戦前には、「夫のために、身を犠牲にした妻の鑑」と言われていたくらいです。だからこそ理解に困るのでしょう。だって文中に、「秀頼様が細川を成敗する」とあるからです。「無理に人質が取れなくなった」どころか、「自殺するとは何ごとだ。ふざけるな。細川は成敗だ」と、逆になっているわけですもんね。

○理解のポイントは時系列なんです。「ガラシャが死んだ」ので「細川成敗の命令が出た」の順番であれば、定説を壊すだけですが、その逆で、「細川成敗の命令が出た」ので「ガラシャが死んだ」の順番ならば、話が恐ろしく変わってしまうのです。要するに、細川屋敷は攻められて、焼き討ちされたことになって、降伏を拒んだガラシャは「戦火の中に死んだ」のです。こう考えると全部の辻褄が合うんですよね。まず十二日に石田は、安国寺を使って「自分の謀反の噂」を立てます。これによって「輝元の全権代行代理を確定させた」という話を前回に書きましたね。すると、全権代行の家康も不在だし、全権代行代理の輝元も未着だし、豊臣家には軍事権の「空白」が生じるのです。その空白を突いて、石田自身が大坂城へ乗り込みます。「私に謀反の意思などない。弁明させてくれ」と言い出します。もしも奉行衆が、「輝元様の到着まで、石田の身柄は拘束」とした場合でも、輝元を迎えにいった安国寺が、口裏合わせの工作をしていますから安心です。しかし奉行衆は、単身で乗り込んできた石田の弁明を、とりあえず聞くことにした模様。それが十五日の「三一号」島津の手紙にあった内容です。「輝元様もご存じ。上杉家も同意した」と言って、石田が持ち出した話が「細川成敗」なのです。つまり石田は、十五日の時点で大坂城にいたこととなり、「輝元様も知っているよ」と嘘をついたのも、石田自身だと考えられるのです。だから島津の手紙には、末尾に「詳しくは石田が書く」とあったわけです。島津も同席する場で話し合った内容を、上杉に報せる役目は石田であるべきで、だって上杉と連絡を取っていたわけじゃないですか。定説においても、事前に共謀しているんでしょ?

○石田の主張は、「謀反の準備をしたのではない。豊臣家を裏切る不忠者、細川忠興を討つ準備をしたのだ」であり、その証拠を言うわけです。手紙の中にありますね。「内府へ助勢して、越中守の親族一同、残らず行ってしまったこと」と。この意味は、「豊臣家の家臣でありながら、秀頼様にお仕えする者は誰もいないじゃないか。まるで家康の家来であるかのように、全部が家康に付いていってしまった。勝手に主君を替えるとは言語道断だ」という意味になりそうです。加えて細川が「そんなことをする」理由も書いていて、「福原の没収領を、手柄もないくせに、なぜか家康にもらっている。これで細川は、家康の家来になっちまったのだ」という意味のようです。ここで一つお気づきでしょうか。「細川を批判する」ついでに、「家康が領地を与えた」とか「罪のない景勝を討伐する」とか、実は「家康の批判」もしているってこと。それでいて結論は、「細川が不忠だから成敗する」という話なんです。ここがポイントなんですね。単に「不忠者の成敗」ならば、上杉の問題が終わって、家康が帰ってきてから「家康に言うべき」はずのこと。でも石田は、「家康が甘やかしたから、こんなことになった」と主張しているわけで、「だから家康に言ってもダメなんだよ。家康がいない今こそ私が立ち上がったのだ」という理屈が成り立つんです。なお、手紙の宛名の別所吉治は、丹後へ向けて出陣し、忠興の父「細川幽斎」の田辺城を攻撃したメンバーです。つまり「この手紙」は、細川討伐を命じる「西軍最初の軍事命令」で、だとすれば、この十七日には輝元が大坂に到着していて、出陣の認可をしたはずです。すなわち、奉行衆も輝元も、そして話を聞かされた島津でさえも、「石田の言い分」を受け入れたことになるのです。そのくせ石田の本当の狙いは、家康から「豊臣家の軍事権」を奪い取ること。細川討伐の「田辺城攻撃」発端にして、徳川を巻き込んだ全面戦争へ持っていくことなんですよね。ちなみに「田辺城があっけなく落城して、全面戦争にはならない可能性がある」とか、思う人もいるのでしょうが、現に「石田の思惑どおり」になっていったじゃないですか。なぜそうできたのかは、これから順に書いていく予定です。
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