mixiユーザー(id:63255256)

2015年09月14日17:53

1362 view

関ヶ原の合戦の手紙史料は偽書だらけ

○以下の二つの手紙史料は、どちらも徳川家康が書いたもの。日付も同じで九月一日、関ヶ原決戦の半月前です。少し意味を整えて、現代語にしてみましょう。

●手紙A「わざわざ加藤源太郎を行かせて伝えます。今日一日には神奈川に到着していて、すでに江戸を出馬しています。中納言の使者が帰ってきて、そちらの情報を詳しく聞きました。垂井に陣を置いたのは当然だと思います。今までの数々の御手柄については、言葉では言い尽くせないほど感謝しています。このあとは戦闘を控えて、私たち親子が到着するのを待つとのことですが、もっともなことだと思います。詳細は使者が述べるので、細かいことは書きません」

●手紙B「手紙を読み、納得しました。備前中納言、島津、石田治部、小西が大垣城に立てこもっているそうで、幸いだったと思います。日中だけでなく夜も進むほど急いで行きますから、よく話し合って、危険なことのないようにするのが肝心です。私が到着するまで、そんなにかかりませんので、それをしっかり心得ていてください。会って話をするのを期待しています」

○どちらの手紙も宛名は複数の連名なのですが、両方に「黒田甲斐守長政」の名前が入っています。つまり家康が、同じ日に、同じ人物に宛てて書いた手紙なのに、このように文章が違っていて、内容も相違しているのです。関ヶ原の合戦と言えば、西軍の石田三成たちが大垣城に籠城し、東軍の黒田長政たちは、城の西側、垂井の近くの赤坂という場所に布陣したことが知られていますが、手紙Aでは「東軍が垂井に布陣したのは当然だ」と書いていて、西軍が大垣城にいることには触れていません。しかし手紙Bでは反対に、「石田らが大垣城にいて幸いだった」と書き、東軍の布陣の位置については書いていないのです。単純なことのようですが、この違いによって、驚くほど「手紙の意味」が変わってしまうのです。手紙Bでは、敵がどこの城に集結しているのかが問題だということ。それが大垣城であれば、布陣の位置は、わざわざ手紙に書く必要もないほど「垂井で決まり」ということなのです。反対に手紙Aでは、敵の集結している城は大垣城があたりまえで、いちいち手紙に書く必要もないことで、問題は、大垣城に対して「どこに布陣するべきか」ということになります。すなわち、合戦において布陣の位置は、「城に対して必然的に決まる」のか、それとも「戦い方によって選択的に決める」のか、という「合戦の方法論」が、二つの手紙で「まったく正反対の考え方をしている」わけなんですね。

○「関ヶ原」という場所は、大垣城の西、垂井よりもさらに西に位置します。大垣城での激しい攻防戦はなく、城が落ちてもいないのに、家康が関ヶ原に移動したことで、両軍の野戦決戦になったことも知られています。「なぜ大垣城を攻め落とさなかったのか」について、手紙Aでは「このあとは戦闘を控えて、私たち親子の到着を待つとのことですが、もっともなことだ」と書いてあります。加えて「今までの数々の御手柄」ともありますので、黒田たち東軍の前線部隊は、次のように言ってきたのだと考えられます。「岐阜城を落とすなどの戦いは前哨戦にすぎないから、前線部隊で片付けたが、ここから先の大垣城攻めは、天下分け目の戦いで、徳川がやらなければ意味がないから、われわれ前線部隊は攻撃を控えて、徳川が到着するのを待ちます」と。ところが手紙Bでは、「急いで行くから、危険なことをするなよ」と書いているのです。この点でも二つの手紙は理解が逆で、「城を攻めないよ」と前線のほうから言ってきた手紙A。「私が行くまで城を攻めるなよ」と家康のほうから抑制を求めた手紙B。歴史の結果として「大垣城の攻防戦はなかった」わけですが、手紙の記す「合戦の考え方」は、正反対だと言えるでしょう。では、なぜ、こんなにも違っているのでしょうか。

○関ヶ原の合戦は、日本陸軍参謀本部が研究分析をした『日本戦史関原役』の内容が、ほぼ「歴史の定説」となっています。復刻版が出版されていますので、読んでみたところ、巻末に百三十五本の手紙史料が収録されていました。しかしその中には、上記のような「内容の違う手紙」が含まれているのです。当然、片方の手紙は「偽書」です。同じ日付で、同じ人物宛てなのに、内容が「まったく反対」なのであれば、片方は「あとの時代になって、誰かが勝手に書いたもの」でしかないわけです。では、どちらが本物なのでしょう。どちらか片方でも原本史料であれば、家康の署名筆跡から「本物である」と判定できるのですが、残念ながら手紙Aも手紙Bも、江戸時代の刊行物から採録されたもので、原本史料ではありません。そうすると、手紙の内容で真偽を判断するしかないのですが、その内容が「これだけ違う」わけなのです。さらに言えば、百三十五本の収録史料の中には、合戦の方法論が「手紙Aと同じ理解のタイプ」と「手紙Bと同じ理解のタイプ」と、二種類あることもわかりました。さすがに「同じ日付で、同じ人物宛て」ではないにしても、意味の違う手紙が相当な量で混在していたのです。しかし定説解釈では、基本的に「手紙Aと同じタイプ」が史料採用されていただけでなく、「手紙Bと同じタイプ」も記述の一部が「都合よく」使われていたのです。片方は「違う理解」の偽書なのですから、取り除かないといけないのに。

○試しに以前、「明らかに判別のつくもの」だけを抽出し、手紙Aタイプと手紙Bタイプを比較してみたところ、伝えている状況まで違っていることがわかりました。なお、合戦の方法論について言う限り、本物は手紙Bタイプです。つまり関ヶ原の合戦は、日本史上の大きな転換点の一つでありながら、その解釈が偽書で塗り固められていたのです。ゆえに判別の微妙な史料が気になっていたわけですね。全部を解析すれば、定説解釈とは似て非なる別ものになってしまうことでしょう。そして私は「その作業」を、一部の学生に見せる約束をしていたのですが、彼らと会う機会もなくなってしまった今、別件で使っている「この場」をもって、とりあえず書いていくことにした次第です。いつか彼らの目に留まることを願い、公開設定にする以上、このような「言い訳」も書き添えておきます。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する