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2019年04月21日00:58

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合戦考証41「抜駆の疑惑」島原の乱

○前回までに、忠利の「九二八番」と、それに忠興が返信した「一五一八番」の内容を解説してきました。江戸の留守居が「御隠居様は、殿様が本丸一番乗りをなさったことも、大将首を御取りのことも、信じてくださいません」と報告してきたので、忠利は「すべて事実です。信じてください」と返信したのですが、そもそも「忠興の理解」は違っていたのです。細川家が本丸一番乗りをしたのも、大将首を取ったのも、道中に届いた報告状で「知った」うえで、戦闘状況を理解した途端に「上様は手柄とお認めくださらないかも」と即座に判断していたんです。だから、江戸へ到着するなり忠興が「この件は取沙汰無用」と留守居に命じたのは、幕府の裁定が出るまで「今は余計なことを言うな」の意味だったわけ。

○では、なぜ忠興は「手柄と認められない可能性」を判断したのでしょうか。それは「抜け駆けの手柄は認められないから」なんです。歴史学者は「武士ならば抜け駆けするのが当然だ」とかって言いますけども、戦国大名で「合戦経験者」である「忠興の理解」が現に違っているじゃないですか。しかも、これについては忠利自身が、城乗りをする前の手紙で、同じ見解を自分でも書いてましたよ?

●忠利九一四「2月8日」第四文
「一つ、こちらに上様御勘当の浪人衆、または各家の使者、または浪人(が来ていて)当家が三ノ丸を取りに出るとの話を聞いたなら、無闇と参じてくるのでしょう。堅くこれらの者は拒絶を命じるつもりです。そのうえ、五人や三人でも参加してきて(その内の)一人や二人が乗り込んだとも、城内には堀または落とし穴が数々とあるはずで、軽々しく兵を入れたら必ず落ち度になるでしょうから、一人や二人の浪人が(城に)入っても捨てておき、状況を見ての判断にするつもりです。ただし、これを上使に御認可いただきたいと申しましたところ、もっともなことだと思われたのです。(だから)堅く禁止を命じるつもりです。それから、今回は城乗りだとは思わずに、塀の裏には誰もいないほどにしておいて、さらに塀を掘って倒し、できるだけ安全に兵を入れることが重要ですから、浪人や使者が無理に入ってしまったら、もちろん見捨ててしまえ、または切り捨ても構わないと、江戸へ(お戻り)の上使の前で言い渡しましたので、少しは安心しております。ずっと手負いは少なくなるようにとの御命令ですから、いろいろと、楯ほかのさまざまな用意を致し、ほかにも柵などに至るまで、しっかりと命じておきました」

○浪人だとか、他家から来た使者が現地にいて、勝手に乗り込みをした場合、見捨ててしまえばいいし、切り捨てても構わない。そのことを「上使も当然だとお認めくださいました」と、自分で書いているんです。命令を無視しての「一番乗り」など認めないどころか、「そのせいで兵に損害が出たら困るので、邪魔ならば殺してもいい」とさえ言っているんです。この話は、どうなったんですか?

○わざわざ「江戸へ(お戻り)の上使の前で言い渡した」忠利。ならば「上様の御耳に達している」かもしれませんね。そして忠興は「この一番乗りが手柄と認められるか、それとも処罰の対象になるか、微妙なところだ」と理解して、だからこそ「はっきりしたことを幕府が伝えてくるまで、当家のほうで余計なことを言うな」と命じたんです。そしたら四月五日になっても「上様が御目見えを許してくださらない」という「一五一七番」の記述です。そういう「微妙なことになる」のを、忠興は「江戸に到着した三月十日」の時点で判断していたんです。

●忠興一五一七「4月5日」考証36に全文逐語訳
●忠興一五一八「4月5日」考証38に全文逐語訳

○では、逆に「抜け駆けにならない」可能性は、あるのでしょうか。それについては「一五一八番」に示唆されています。前に指摘したごとく「二十七日に攻め損なった」と忠興が書いていたこと。ここが理解のポイントなんですよ。

○城乗りの予定は二十八日でした。しかし二十七日に始まりました。もちろん合戦とは、状況の変化に対応すべきものですから、予定どおりに行かないこともありえます。このとき細川軍が三ノ丸へ乗り込んだのを、抜け駆けと見るか、状況の変化による不可抗力と見るかです。次に問題なのが、事前の規定で「その丸きり」だったのに、細川軍が二ノ丸へ乗り込んだこと。これを忠興は「ただし二十七日にも攻め損なって、御手段の立て替えのようでもあるから、早い報告も構わない」と書いていました。原文は「但二十七日にも責そこない、御手たて替やうの事に候はば、はやき注進も可然事候」です。つまり「二ノ丸のほうで攻め損なったので、代替手段として三ノ丸からの二ノ丸乗り込みなら、これは抜け駆けではない。しかも、一旦は攻め損なったことの報告が出ていると、後方では心配なさるから、落城の報告をすぐに送るのも当然だろうな」と言っている意味。

○忠利が「一人で城攻めをしている」わけではないんです。ほかの軍の状況があって、上使の判断があって、それで「全軍が動いている」んです。最終的に「上使がどんな報告をするか」によって、細川家の手柄になるかどうかです。なのに留守居たちは「忠利が豊後目付に送った報告」を読んだだけで、もう「殿様が大手柄だ」と喜んで、舞い上がっていたんです。まだ上使の報告も江戸へ来ていないという時点で。

○もしも「抜け駆けだ」と判定されたら、何かしらの処分が下るでしょう。三月十日の時点での忠興は、それを恐れていたはずです。けれども「十六日、御上使として酒井讃岐殿が来宅。御親切な御上意です」という「一五一七番」の記述。このときの感触で忠興は「最悪の事態はないようだ」と判断した模様です。だから四月五日付の「一五一七番」も「一五一八番」も、言葉は穏やかなんですよ。
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