mixiユーザー(id:63255256)

2018年09月04日00:55

270 view

本史関ヶ原121「決戦前日まで解読」

○「本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦」で解析してきたデータに、一致する展開が廟算によって見つかりました。やはり「敗けたのには、敗けただけの理由があった」ようです。後巻きの吉川広家と、後詰めの石田三成とで、意思が通じていなかった模様。さらに小早川秀秋が加わって、それぞれが「別の思惑」で動いてしまっていたようです。その状況を整理しておきましょう。

○豊臣軍団の大垣進出を「七日」と設定したのは、家康の江戸出陣を「確認できたから」としたゆえです。吉川の後巻き着陣を「八日」に設定すると、その時点での豊臣軍団は「明日にも撤収する気か?」と切迫感を抱いているはずなのに、細川忠興が「家康公の到着次第、全部をやっつけてやる」という認識を手紙に書いているので「合わない」わけですね。よって「九日の着陣」と設定してみました。そして石田は、後詰めを務めながらも「明日は後巻きも退却してくる」という「認識だった」と推測したわけです。けれど吉川は戻ってきません。石田は当然、最前線に使者を送ったでしょう。しかし吉川は「認識が違う」ので、使者の言う話を理解しえないでしょうね。「子供の使い」でもあるかのように使者が戻ってくれば、石田は激怒するはず。「自分こそ正しい」と思い込むだけの「プライドの高い性格」でしょうから、吉川の「勝手な行動」で「自分がリスクを背負わされる」ことなど、決して我慢ならないはずです。よって石田は「十一日の夜明け」に「吉川が退却しない」のを確認すると、山中へ陣を下げてしまうんです。

○松尾山の東の尾根で「橋爪に対抗布陣する」南側に、脇坂安治がいたと設定しました。定説化している話では「西軍側で関ヶ原に参陣したが、秀秋と一緒に東軍へ寝返った」とされる者ですね。脇坂が「石田の陣替え」に驚いて「秀秋に報告した」とします。そこからの移動経過時間は難しいのですが、十二日の未明には報告が届き、秀秋が朝に進発し、十二日の日没までに「中仙道で山中の西に入ってきた」という感じでしょうか。一旦「城山の手前」で軍を停めます。無論のこと秀秋は、石田の行為を「とがめる」かたちで話し合いをするでしょう。けれど石田の弁明には納得せず、翌十三日の朝、秀秋は断固として「松尾山の東へ後詰めに行く」わけです。ただし「橋爪にいる敵」にアピールすることを忘れずに。

○一方の関東側。十二日には家康が清洲へ来ています。この時点では「今にも退却するかのような態勢でありながら、大胆にも後巻きを続ける吉川」と、どうやって戦闘するかを考えていたでしょう。岐阜にいる「後詰めの豊臣軍団」が前線へ出られるように、家康は岐阜へ移動。徳川軍で後詰めを引き受けます。つまり家康が「清洲を発した十三日の朝」に、南宮山の裏側では「小早川軍が姿を見せつける行動をとる」わけです。橋爪からの連絡が、岐阜へ届くのは十三日の午後も遅いころでしょうね。そこから家康は考えるわけです。この事態の変化を。

○家康が「どのように考えた」のかは省略。今は状況の整理を優先。秀秋は、松尾山の東の尾根で、自分の本陣を北側に置きます。後詰めをする以上、当然ですね。そして配下の部隊を南側にも置いたでしょう。するとそこに、橋爪のほうから軍使が来るわけです。敵陣へ軍使を送るときには作法がありまして、「これは軍使だ」とわかるようになっているんです。よかったら『信長戦記』3巻をご覧くださいな。ちょっとしか描かれていませんけどね。ともあれ、秀秋の思惑どおりに、徳川家から「井伊と本多の誓詞」が、小早川家の稲葉と平岡に送られてきました。もしかすると「家康の秀秋宛て誓詞」もあったかもしれませんよ?

●一〇八号9月14日「差出」井伊直政、本多忠勝「宛」稲葉正成、平岡頼勝

○手紙の全部が「必ず残っている」はずもないですね?「現存していない」からって「そもそも存在しなかった」とは言えません。一〇八号は「もしも味方してくれたなら、二ヵ国をあげる墨付きをとる」と言っていますが、本文は「敵対しないでくれ」の意味だと説明しました。だから家康が「秀秋を敵視しません」の誓詞を書いている可能性もあるんですよ。そして一〇八号の「返事」として、稲葉と平岡が「誓詞を返した」可能性もありますし、秀秋自身が家康へ誓詞を返しているかもしれません。単に「手紙が現存していないだけ」の話であって、「存在しない」と断言はできないんです。ただし歴史学では「現存しない手紙史料など考慮できない」でしょうね。だからこそ、これは「文学の話」なんですよ。全部の史料がきれいに残っているはずもないので、「文学を無視する」と歴史学の研究は進まないんです。かと言って「文学を安易に取り入れる」と、可能性のないことまで安直な想像で書いてしまうようになって、荒唐無稽になっちゃいます。

○ともかく、これが十四日のことになります。日程が合ってきました。このように「裏で状況の変化が起こっている」と見れば、吉川の後巻き着陣を九日と見ていいようです。さらに言えば、この時点での秀秋は「松尾山の東の尾根で後詰めの位置にいる」んです。すると一〇八号の内容が「敵と見なさないので敵対しないでくれ」すなわち「こちらを攻撃しないでくれ」なわけでしょ?「秀秋は南宮山の裏にいる」けど「攻撃しないでくれる」なら、関東側は「関ヶ原へ進出できる」という意味になるじゃないですか。つまり関東側が望んでいたのは、後詰めの秀秋に「素通りさせてくれ」ってことなんですよ。でも、そんなことをしたら「秀秋の離反がバレてしまう」と前に書きました。じゃあですよ?「関東側の要請を受けて、秀秋が素通りさせた」場合、石田たちはどうするんです?

○「秀秋の離反行動に驚いて、山中から退却する」ことになるんじゃないですかね?「攻める合戦」で「死んでもいいから戦うのが合戦だ」と思っていると、気づかないわけです。関東側は「関ヶ原で戦う」よりも、敵が佐和山城に下がったところを「巻く」ほうが、よっぽど戦いやすいんです。つまり秀秋が「離反の決断」をしたときに、実は「大坂側をやっつけてやる」とは思ってなくて、石田を退却に追い込んでしまえば、それでよかったんですよ。徳川家から誓詞を受け取った秀秋は無傷で済むし、南宮山の向こうに出ている吉川たちも、傷つかずに済むんです。けれども結果的に「関ヶ原合戦」となって、結果的に「秀秋の寝返り行動が決着をつける」展開となるんです。そこが最後のポイントですね?
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する