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2018年08月11日00:15

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本史関ヶ原115「裏切り者は誰?」

○「本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦」として、史料解析データを整えました。その次に、データと合致する展開を「廟算」によって探したわけです。結果として「見えてきた」のは、異常な状況でした。「東軍が関ヶ原へ出たときに、南宮山で吉川が動かなかったのは、裏切り工作に応じていたからだ」と語られてきましたが、廟算値に基づくと「味方に裏切られて、見捨てられていた」のは南宮山にいる吉川たちのほうだったわけですね。決戦の当日までに、いなくなっていた後詰め。だから関東側は関ヶ原へ進出できたのです。さらに廟算値は、定説で語る設定にも近づいてきました。宇喜多軍は天満山にいて、小早川軍は松尾山にいたようです。しかも関東側は、稲荷山を押さえることなく、一気に関ヶ原へ進んだようです。ただし、話は「裏返し」のごとくに変わってきています。

○今までの廟算は、後巻きに出ている吉川と、それに対応する福島での想定でした。ここからは「問題の行動」をとった小早川秀秋の廟算をしてみます。高宮に残っていて、前線には出ないはずだった秀秋。なぜなら関東側が、万が一、多良のほうから高宮へ抜ける可能性もあるのだし、千種越えで近江へ入ってくる可能性もゼロではないからです。あらゆる可能性を想定して、ゼロではない以上は対応しておくのが合戦であり、そのための廟算です。「誰かが務めなければならない役」ですから、それを引き受けた秀秋は、その任務を全うするのが本来です。

○なぜ秀秋は、後方に残る任務を引き受けたのでしょうか。そしてなぜ、その任務を放棄するかのごとく、前線に出てきたのでしょうか。これらの疑問は「当然の疑問」だと思いますが、その理由を考えるから「屁理屈」になるんですよ。理由付けなどは、解釈次第で「どうにでもなる」んです。それよりも秀秋の行動を見るべきです。まず重要なのは、秀秋へ「徳川家が誓詞を送っている」こと。どうして徳川家は「秀秋を味方にできると考えるに至ったのか?」の点なんです。たとえば「最初から秀秋が後詰めを担当していた」と仮定します。そして関東側は、廟算によって「後詰めで裏にいるのは秀秋の可能性が高い」と見ていたわけです。すると関東側は、どうやって「裏にいるのは秀秋だ」と確認したのでしょうか。確認もしないで誓詞を送って、「秀秋はいなかった」となったら、どうするんでしょうか。ならば忍者でも送り込んで、南宮山の裏を調べましたかね?

○私が最初に想定したのは、秀秋が「高宮から多良を抜けて、松尾山の東へ直接に出た」可能性でした。この進路をとることで、関東側の「橋爪の部隊」に「わざと姿を見せる」わけなんです。途端に関東側は「裏にいると思っていた」秀秋が「いなかった」ことを知るうえに、今は「南宮山の裏にいる」と知るんです。ただし、これだけでは「味方にできる」と考える根拠にならないんですね。秀秋が高宮を離れたのは「別の誰かの軍が高宮に来て、交代したから」かもしれないし、「いよいよ吉川が陣を下げる決断をして、後詰めを増強したから」かもしれません。可能性はいろいろあって「判断がつかない」んです。そのうえ移動速度にも問題があります。高宮から出てくるなら、山道で多良を抜けてくるのも、中仙道で来るのも距離的には同じようなもの。だったら「街道のほうが速い」んですよ。わざわざ「多良を抜けてくる」ことに、利点は何もなさそうなんです。

○そこで今度は「逆の発想」で、秀秋が「中仙道を進んできた」と想定してみました。すると一つのポイントに気づきます。秀秋がそのまま山中に布陣したとしても、あえて松尾山の東に布陣したとしても、秀秋のその行動を関東側は「知るすべもない」わけですよね?「実は秀秋が前線に出てきた」ことを「知る」ためには、状況的に「橋爪の部隊」の見えるところへ出てくる必要があるわけで、ゆえに「そのまま山中に布陣」では姿を見せることができません。だからって「あえて松尾山の東に布陣」しても、普通だったら「関ヶ原を通っていく」わけですから、姿を見せることはないんです。よって秀秋が「あえて普通ではないことをした」と考えるしかなくなるんですよ。中仙道を通ってきていながら、わざわざ松尾山の南側の細道を通って、東の尾根へ出るんです。それだけでは「橋爪の部隊」も気づかないかもしれないので、わざわざ「多良への分岐点」のあたりまで一部の軍を南下させて、さながら「示威行動」のように振る舞ってから、松尾山の東へ引き戻っていくわけです。このくらい「普通ではない」ことをしてみせれば、関東側が気づかないはずもないってもの。その代わり「二つの問題」が生じますよね?「こんな行動」を秀秋がとったなら、石田たちが「おかしいと思わない」のがおかしいわけだし、しかも秀秋の陣所は「南宮山の裏」になるわけです。

○前回は「石田に思惑を気づかれないため」という想定で、秀秋は「南宮山の裏にいてはならない。石田と一緒に山中へ布陣するべきだ」としました。しかし秀秋の思惑を「関東側に伝えるため」には、秀秋が「松尾山の東の尾根へ出てくる必要」が生じてしまって、ここが矛盾してしまうってわけなんです。とはいえ、この矛盾点から「一つのこと」がわかるんですよ。それは「大坂側を見限る意図を、関東側へ意思表示するには、秀秋が南宮山の裏に出てきて、後詰めを務めることになる」という点なんです。すると十四日付「徳川家の誓詞」が届いてきたわけですけども、もしもですよ?「関東側が秀秋の意図に気づいてくれなかった場合」すなわち「誓詞が届いてこなかった場合」には、秀秋はどうするんです?

○時系列を把握してますでしょうか?「秀秋が前線に出てきた」ので「徳川家が誓詞を送ってきた」から「秀秋は寝返ることになった」んでしょう?「前線に出た」時点で「寝返ると決まっていた」わけではないんですよ。だから私は「大坂側を見限る意図」という言い方をしているんです。秀秋の意図が理解されなければ、秀秋が寝返ったとしても、それまでの敵対行動が問題視されて、結果的に処分を受けることになるかもしれませんね?「その場合」を考慮すれば、関東側のアクションがなかった場合、秀秋は「素直に後詰めを務めるだけ」になるはずなんです。よって「前線に出てきた」時点において言う限り、まだ秀秋は「後詰めを放棄していない」ことになりますので、秀秋は「南宮山の裏にいた」でいいはずだし、まだ「裏切ってない」のだし、つまりは「吉川たちを見捨ててない」んです。要するに秀秋は「徳川家の誓詞を受け取ったとき」に、はじめて「裏切る決意」をしたのであって、それまでは「裏切り者ではない」ことになるんです。
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