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2015年09月26日01:55

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関ヶ原史料「三成との共謀?」上杉討伐二四号

○まずは家康の書いた手紙です。六月二日付で、家臣の本多康重に宛てたもの。

●手紙二二号「強く申し伝える。七月下旬に、奥州方面に出陣することになったので、油断なく用意をしっかりとせよ。出陣日については、京都から仰せがあるだろうから、またあとで連絡する」

○会津へ向けての出陣が決定したことを江戸に報せて、準備を命じたもの。しかし、ちょっと引っかかる点があります。「出陣日については、京都から仰せがあるだろうから」の文章ですね。原文では「日限事自京都可被仰出候間」で、確かに「京都」と書いてあるのです。天皇のことであれば「禁裏」とか「禁中」とかって書くでしょうし、もっと高い敬語が使われるでしょうから、考えられる可能性としては、「出陣日を陰陽師に占わせている」の意味ぐらいです。戦国大名の中には「こういうことをしている」記録がありますけど、家康もしていたかどうかは不明です。本物か偽書か、これだけの内容では判断できません。

○次の手紙は石田三成の書いたもの。上杉家の筆頭家臣、直江兼続に宛てたもので、六月二十日付。すでに家康は大坂を離れて、江戸へ向かっているころです。

●手紙二四号「先日いただいた詳細な手紙に、ただちに返報します。内府は一昨日十八日に伏見を出馬。かねてからの調略は、あなたの思い通りとなって、天の与えるところかと、喜んでおります。こちらも油断なく準備をしますので、来月の初めに佐和山を出て、大坂へと越境します。輝元、秀家、そのほか無二の味方あり。ますます御安心を。そちらの方面ではどういう手段をとるのか、伺いたいので、中納言殿へも別書を送ります。よろしくお渡しくださいますよう、お頼み申しあげます」

○石田三成は、家康が畿内を離れた隙に兵を挙げるため、直江兼続と事前に共謀していて、上杉家が家康を怒らせ、出陣するように仕向けた、という説がありますね。その証拠の手紙です。ただし「これが本物ならば」の話です。疑問を一つ言うならば、「先日いただいた詳細な手紙」と書いていながら、その「詳細な内容」に少しも触れていないことです。一読して「本物に見えない」手紙なんですよね。試しに、次は徳川秀忠の手紙にいきましょう。栃木の那須地方の小大名、大田原晴清に宛てたもので、六月二十二日付。

●手紙二五号「先日は境界地域のことを、何度か伝えてこられましたが、その通りで、大変に喜んでおります。ならば、そちらは皆で相談なさって、人の通行を停めること、堅く命じられますように。詳しくは石川八左衛門に言ってあります」

○栃木を通って福島に入る奥州街道。大田原は前線地域に領地があるので、街道封鎖をするようです。具体的なことは何もわかりませんし、実を言えば、この手紙も本物である確信がないのです。それでも「境界地域のことを言ってきた」というぐらいの記述はあるわけですね。原文では「就境目儀度々被仰越候」です。手紙を書いてきたのに「仰越」で「言ってきた」となるのは、手紙には「何について」と簡単に書くだけで、あとは手紙を届ける使者が説明するからです。ちなみに末尾の文章は、原文だと「委曲石川八左衛門申含候」で、「詳細は石川に説明してある」となります。すなわち、どんなに秘密の話であっても、それが重要なことであるほど、腹心の家来が説明に行くはずなのですが、三成の手紙には、その要素も見られないんですね。ともあれ、古文書学の専門家ではないので、書式の問題は二の次です。二四号の手紙を偽書だと思う理由の第一は、合戦の理解が変だからであって、それについては、手紙を順に見ていく過程で書きます。付け加えておきますと、二四号は『続武者物語』という江戸時代の読み物から採録されたものです。
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