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2015年09月20日01:57

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関ヶ原史料「本当に討伐戦?」上杉討伐二〇号

○二つの手紙を比較します。どちらも家康の書いた手紙で、「上杉討伐」の関連です。「手紙二〇号」は五月三日付で、栃木の伊王野資信に宛てたもの。北部の那須地方、黒磯の近くに城を構える小豪族ですが、奥州街道の鍋掛と芦野の中間に位置しているため、そのすぐ先は白河となります。福島県境の手前にいる存在です。「手紙二三号」は六月十四日付で、新潟の新発田、溝口秀勝に宛てたもの。

●手紙二〇号「このたびの会津方面のことを伝える。そこの街道口を堅く守るように。追っ付け出馬して、討ち果たすだろう」

●手紙二三号「そちらから、佐渡庄内へ働くことは、一切無用である。会津へ働いて、その方面が済んでしまえば、不要なことなので、それを理解すること。なお、西尾隠岐守が説明するだろう」

○唐突ですが、漢語の素養がない人は「観兵」と「閲兵」の区別がないんだそうです。二十年ほど前になりますが、中国がミサイル発射訓練をしたときに、ある新聞が批判して、「言葉では演習と言っても、事実上の軍事威嚇だ。文化国家のすることではない。古代中国は、周辺の民族を蛮夷などと呼んだが、まさに蛮夷のすることだ」というようなことを書いたのです。そしたら某週刊誌のコラムで中国文学の先生がそれを取り上げまして、「何を言うのだろうね。文化的ではない蛮夷は、いきなり攻めてくるのだよ。古代中国は文化的だから、観兵で威嚇するのだよ」と書き、「鼎の軽重を問う」の故事を説明したのです。その後、合戦研究を始めて、戦国史の本を読んでいたら、「織田信長の馬揃え」を「周囲の敵を威嚇する示威行動」と書いている人がいて、「なるほどなあ。本当に観兵と閲兵が区別できないんだあ」と思ったことも覚えています。閲兵は、君主の臨席をいただき、軍事パレードなどを盛大に挙行して、自軍の士気をあげること。観兵は、敵地の間近で大規模な軍事演習を見せつけて、敵を威嚇すること。この場合は「兵をしめす」と読み下すのですが、「兵をみる」と読んでしまうことで、閲兵と区別がつかなくなるのだそうです。もちろん、テレビ放送の普及している現代では、自国の中で軍事パレードをする閲兵も、そのまま敵国に見せつける観兵の意味となってしまいますが、戦国時代にテレビ中継はありませんのでね。観兵のためには絶対に、境界地域へ行く必要があるわけです。

○二三号の手紙を最初に読んだとき、可能性に思い至ったのが観兵でした。「上杉討伐」または「会津討伐」という言葉が定着していますけど、本当に家康は討伐戦争をやる気だったのか、疑問が生じたわけなのです。無論のこと二〇号のように、「討ち果たす」と明記してある手紙も存在します。でも、関ヶ原の手紙史料は偽書だらけで、全部を信じることはできません。偽書はどちらでしょうね。

○新発田の溝口が「佐渡へ働く」ことを言ってきて、家康は「一切無用」と拒否の返事をしました。その理由として、「会津へ働き、その方面が済めば、不要のことだから」と書いています。原文では「会津働彼表相済候得ば不入儀」となります。「会津働」の言葉を、「上杉を攻める」と理解しがちなのですが、上杉の領地は山形などにも広がっています。よって「会津方面が済めば不要」の文章は、溝口が「北の佐渡を攻めること」が無用なだけではなく、「南の米沢を攻める必要もない」と言っている意味になるのです。また「相済」の言葉を、「景勝を討ち果たしてしまう」の意味で読むことによって、「上杉景勝の居城を攻め落として、景勝を討ち果たせばいいのであって、ほかの地域などいちいち攻める必要もない」の意味となるわけですね。しかし、厳密に「会津方面のことが済めば」と読んだ場合、「奥州街道の白河口で、するべきことをするだけで、上杉を攻め討つわけではないから、余計なことはしなくていい」の意味となるのです。攻めるわけでもないのに、大軍を率いて会津に向かって、いったい何をするのか、と言った場合に、すぐに「観兵」という言葉に思いあたらないのは、知らないからでしょう。

○一説に家康は、「石田三成が挙兵したがっているのを見抜いていた」と言われます。「上杉討伐に行くという口実を作り、わざと大坂を留守にして、三成が挙兵するように仕向けたのだ」というわけですね。この解釈であれば、「することをするだけで、攻めないんだよ」の意味と合致するのですが、この解釈には弱点があります。六月の段階で溝口に「裏の事情を話している」となってしまうことです。三成の挙兵が七月で、なのに六月中に、「徳川の味方は、みんな裏事情を知っていた」となって、知らなかったのは「のけものにされて、西軍に付いた者だけ」となりかねません。では、溝口宛ての手紙を偽書として、伊王野宛てのほうを本物だとしましょうか。すると、「やる気満々で上杉討伐に行った家康は、三成に挙兵されちゃって、上杉を討つこともできなくなっちゃいました」となって、定説解釈に戻るだけです。少なくとも「三成に挙兵させる口実」説は、成り立たないようですよ。手紙史料の記述を都合よく取捨選択しない限りは。
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