レオスカラックスは詩的でギャスパーノエはリアル没入。レオスカラックス、例えば『汚れた血』で、元カノのリーズ(ジュリーデルピー)に宛てた手紙かなにか、アレックスの声が「僕の手触りが君の首からなくなると 君は聖女へ戻るだろう」とかなんとか、たしかに詩的である。しかし、人によっては、あんたアタマどっかで打ったん?となるかもしれない。ギャスパーノエのリアル没入、たしかに現実は暴力に溢れているかもしれない。されど、暴力や罪に充ちているは言い過ぎじゃなかとー?とはなる。でもカソリック的ラテン思考だから仕方ないか。ラテンならもっと明るくいけよ、とも思ってしまうが。不可解なふたりであるがゆえ、このヒトたちナニモノ?と入り込んでしまう。
対でついつい映画作家のテクストを観ちゃうが、例えば、ポストモダンなLAノワールという観点でタランティーノとデイヴィッドリンチ、大きな括りの”アメリカ”ではリンクレイターとポールトーマスアンダーソン、エイティーズはサブカル元年で森田芳光と相米慎二、他にはテーマは決めていないけれど、クドカンと山下敦弘、ポンジュノとパクチャヌク、ウォンカーウァイとツァイミンリャン、キューブリックとジョンカサヴェテスという風に。でも、他のペアではずっと観ていて飽きてきて他のを観始めても、またそのうち観たくなるだろう、とはなるのだが、レオスカラックスとギャスパーノエ、それにハーモニーコリンは、なんであんなのを観ていたんだろう、もう観たくない、といつもなる。も、忘れたころに、禁断症状というのでしょうか、また観たくなる。のはなぜだろうか。
【インスタにも載せているので、そちらの方にも向けて書いた感じのものでもあります】
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