『パターソン』 フレデリック・エルムスがDPなのか。色彩がギドギドなイメージするから、乾いたジャームッシュとは違和感あるのではと思えてしまうけれど、そんなことなく、とてもフィットするイマージュでした。ワイルドアットの頃のリンチとパリステキサ
『マップ・トゥ・ザ・スターズ』 ヒッチコックがオスカーとはほとんど無縁だったように、クローネンバーグもまたリンチと同じように、グロテスクなまでに縁がないけれど、そんなにオレを無視するなと言わんばかりに、ではなく、ハリウッドを射程にして皮肉も
『ビフォア・サンセット』 ラストのニーナ・シモンを真似しながら踊る、愛くるしいジュリー・デルピーにアメイジングする。写真性として、そのシネマに在るもの、過ぎ去りながらも今此処にある時間あらわされゆる。モンタージュによる時間の切り取りと配置
『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』 ★恋をするとまわりの光景が変わる。殺風景なものが明るい色彩を帯びる風景へと変わってゆく。ミネリみたいにミュージカル的色彩に変わるというではなく、あるがままの光景はあるがままに、そこにありながらも、変
『ゴースト・ドッグ』 ★ 空をマッシグラに飛ぶ鳩によって、此処ではない何処かであるエキゾティズムにいざなわれるというよりも、その鳩と空のイマージュそのものが或るエキゾティズムとしての精神世界あらわされる。 ★ かつて観たときはポール・シュレー
『5時から7時までのクレオ』 モードの街を闊歩するクレオを追いながらも、モーションにエモーションを浮かび上がらせる。フォトグラファーからキャリアを始めたヴァルダ、彼女自身が言うように制作において文学を意識していたとしても、やはり写し取り配
本日は母と菅原洋一のショーに行ってきたけれど、帰りのタクシー、ドライヴァーの方は菅原洋一が84歳でやってるのビックリしていたけれど、細胞年齢が30歳若い母親を普段見ているので、そんなに驚かなかったけれど、やはり、あの歌唱力はスゴイな。数年前も母
ジョンセイルズはここ最近日本では公開されていないのだろうか? 彼の作品に表わされる照明、というか自然光なのかな、西海岸的な光が好きではなく、また当時は、アメリカの政治的なものもアメリカが抱えるイシューも、いまひとつ分からなかったので、なん
『デッドマン』と『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』、同じ製作年なのか。たしかに、同じ時期に劇場で観た記憶がある。どちらも、眠気がおそい、スクリーンに映る人物や事物の輪郭にズレが起こり、2Dからやがて3Dになっていった記憶がある。『デッ
日曜美術館に録りためている「クラナーハ」「ティツィアーノ」を、展覧会はもうとっくにクロージングなってかなり経った今頃になってようやく観る。クラナーハの作品も素晴らしかったけれど、クラナーハの「ヴィーナス」などが語られるとき、ヨーロッパでは
◆『美女と野獣』 昼夜二元性や愛は人を美しくも醜くもさせるというテーマが陰陽道的に、或いは倫理的に表わされるが、それもまたリヴェットやドゥミに影響を与えたであろう。はうえゔぁー、そうしたテーマよりも、シネマというテクニ
◆『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』 『エブリバディ・ウォンツ・サム!!』において、スポーツマンシップにのっとり正々堂々と闘うということは、協調性ではなく、野生であるということを、あのムキムキマッチョのチェロキーズから教えてもらったが
リンクレイターは人を上手く描けるようになった、或いは、深いドラマを描けるようになった、というよりも、彼のそもそもの人物たちの表層を捉えるような観察眼的カメラアイが、人生というドラマを捉えるものに変化していったのであろう、と思われるのである
◆『エブリバディ・ウォンツ・サム!!_世界はボクらの手の中に』 リンクレイター、ただのコメディではない。やはり只者ではない。同じようにハリウッドと他を股にかけるガスヴァンサントの陰なる空間に対して陽ってわけでなく、インディーズ出発者のなかで
◆『スパイダーマン:ホームカミング』 ★クリティックからも評価いいし今年の夏の興行成績は一番であったこともあるし、DCコミック寄りというよりはザック・スナイダー寄りもあって、私的には『ワンダーウーマン』を観たかったけれど、姪はこっちの方がど
『バーバー』 物言わぬ、というより、物事をそこまで言えないヒトはいる。存在しているようで存在できぬ、その事情、男はまわりからその存在が気付かれないままに生き、マクロに見ることができぬままミクロに生き、イメージを探し求めキャピタリズムに生き、
コーエンズ ★聳え立つ運命のペルソナは、苦難の権化として存在する。『赤ちゃん泥棒』のレオナルド・スモールス、『バートン・フィンク』のチャーリー、『ビッグ・リボウスキ』のビッグ・リボウスキ、『ノーカントリー』のアントン・シガー、に、その存在
コーエンズとタランティーノにおけるハードボイルドの試論 その1 フィルムノワールとハードボイルドとの違い、何だろうか?という以前に、フィルムノワールは映画を指すものであり、ハードボイルドはもっと文学よりの言葉のように思われる。フィ
『キル・ビル』久しぶりに観るけれどおもしろかった。説明的というか、叙述的なタランティーノ台詞も気にならず、テンポよい。愛憎の因果応報的な流れは、タランティーノのいつものストゥリーム。主人公は心のなかでキル・ビルを号令のように繰り返し叫び、デ
時間に現在が欠け、イマージュが生まれるとしたら、たとえば、総括はこうなのか、二階の他人とデビュー作品から他者は存在し、 HOUSE ハウスの主人公はラスト、他者に潜り込み、 つづく、瞳の中の訪問者、ふりむけば愛と、他者を想起させるタイトル、そ
『ヘイル、シーザー!』、誰にヘイルしてるのか、誰を崇めているのか? シーザーと同一化されているスターに対してであり、この作品では不可視の存在として表されるダリル・F・ザナック的人物に対してであり、そしてそれは、ハリウッドそのものに対して崇め敬
その1. http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1960054030&owner_id=2566286 その2. http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1960095182&owner_id=2566286 その3. http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1960100811&owner_id=2566286 その4. http://mixi.jp/view_d
『ヘイル、シーザー!』 同じくチャニング・テイタムが出ているタランティーノは『ヘイトフル・エイト』と同程度の出来のセンス。コーエンズのテクストにおける深さをあまり感じられないが、いつものように人生の疲労感を漂わせる。フィルムノワールってよ
山田大林テクストを観すぎになてしまい、大林のなごり雪を観ていてももはや頭の中になにも入らなくなった。むしろ脳が印象を排除しようとしているかのようにも思えてくる。ノワールである。それはそれで危険なので、志向性を他に向かせなければならない。観す
ハッチャケながらも切なさ表す、そこには、過去が生きている現在としての映画の姿がある。 そうともさ、走馬灯、現代の情報垂れ流しのものとは違いあらば候。そうであれば、プロジェクションマッピングではないもの、例えば、陽の光にうつされ揺れる草木の影
『息子』 この作品ほとんどパーフェクトに思えてしまった。少なくとも、そうした力強さがある。この作品、人が気付かずにいるものへの眼差し、それをソッと映し出す。対象にあるものは無意識にあるものなのではなく、我々が日常で見て聞き感じるもの。これは
『あの、夏の日 - とんでろ じいちゃん』 『さびしんぼう』が恋の執着への始まりが表されるのなら、この作品は恋の決着が表されるようにも感ずられるものである。この作品は尾道の連作の終結にはまさにそれだというものがあった。我々はずっと恋のハナシを視
ハナちゃんと言うことに驚いた。ハナは山田の先輩かと思っていたからだ。ハナが山田との距離をなくさせるためにそう呼ばせたのかもしれない。山田洋次は渥美さんと言うが、前田吟と倍賞千恵子の対談で、倍賞は渥美ちゃんと呼んでいたけど、普段の生活でそう言
◆『幸福』(アニエス・ヴァルダ) ★バルトが言うような、自然にあるがままに見せられる神話。そこに伝達されるメッセージがある。それは解釈をいらない。 ★2つの共存する世界が表される。シネマヴェリテが真実を表す。夫人を演じた婦人(註1)は、映像