☆セリーヌとジュリーは舟でゆく(原題:Céline et Julie vont en bateau、英題:Céline and Julie Go Boating 1974)
* 第二次大戦が終わってそんなに経っていないがゆえ世界への悲観が実存的に考えられるゆえか、或いは欧羅巴ゆえかなんとかの騎士団とかフリーメイソンが身近に感じられるゆえか、リヴェットが描く世界には見えない陰謀が渦巻いている。
*ときおり挟まれる黒のショットは、フレームの間隔の黒であり、本作品がシネマであること、それも、ルイフィヤードはファントマなどのサイレント・シネマのオマージュであること、挟まれる字幕もともない回顧される。
*魔法:シネマトグラフ 陰謀を捉えること、秘密を捉えること、世界を捉えること。カメラアイは肉眼では捉えられない世界を捉えることができる。 ← 目の前にありながらにして見えていない世界を見たい。
*ジュリーがセリーヌを最初に見て追いかけるとき、そこにはアリスとウサギの関係性がリマインドされる。
*あの屋敷は映画館であり、それを見るセリーヌとジュリーも映画の登場人物なのであるが、脚本・演出に縛られた、トリュフォーが言うところの「悪しき伝統」とは対峙している。セリーヌとジュリーは形骸化した古典から映画の声明/生命を救い出す。或いは、少女の時代から抜け出す主人公ふたりの姿もそこにはあるのかもしれない。ジュリーはあの屋敷の傍にある家で、少女自大の記憶を辿っている。また、彼女は少女時代に好きだった男の子をいまだに好きだったり、部屋の中はおもちゃで溢れている。
*オンナノコのオチャメ度が炸裂満載。図書館司書のときから比して綺麗になるジュリーが表される。マジシャンであるセリーヌはアリスいんワンダーランドのウサギ的な役割であろうか、最初は。
*最初に観たときはニューヨークであり、字幕が英語で、それを追うこと自体もきつく、エンタメ映画とは違うノリであり寝落ちしその後に観たときもたびたび寝落ちしたけれど、かつては分からなかった主役ふたりのオチャメ度・オトメ度も理解できてきて、そんなウキウキ溢れるエスプリをフォローしていくと、特に今回、それまで以上に理解できると同時に愉しめられてしまう、となる。
*ジュネは女中たちやベケットがパリで執筆したゴドーを街ながらと同様に、不条理ゴッコ劇。セリーヌとジュリーは敢えて自らが置かれた状況をゴッコにしちゃうオチャメなふたり組。
*受動的に愉しめるエンタメ度があるドゥミのテクストと違って、ゴダールやリヴェットはこちらから能動的に参加する形を欲してるかのようにヌーヴェルヴァーグっている。
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