『父、松本竣介』を読む。360ページを超す大作で少々時間がかかった。
著者は、太平洋戦争後36歳で早逝した画家 松本竣介(1912-48)の次男 松本莞(かん/1939- )である。本職は建築家。
何故この本を読む事になったかというと、今年3月、私は京都の大山崎山荘美術館の企画展「松本竣介 街と人」を観にいき、そこで催された講演会に参加する事ができた。講師は、竣介作品をコレクションの核としている群馬県桐生市の大川美術館現館長 田中淳だったのだが、話も終わり近くなって、実はこの会場に松本莞が来ていると知らされ、聴講者は皆驚いた。
彼は同年1月にみすず書房から『父、松本竣介』を出したばかりで、挨拶後、サインを入れた同書を会場で販売してくれたのである。
その経緯は、以下のレポートで触れている。
・「松本竣介 街と人/大山崎山荘美術館」�´� (2025.3.4~5記)
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https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1989520224&owner_id=3341406
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https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1989523502&owner_id=3341406
莞のサインは�△砲△襦�
莞には兄(晉)と妹(洋子,京子)がいたが、晉は早産で生まれその翌日に、そして洋子は2歳で病死している。
莞は、父竣介が亡くなった時9歳になる直前だった。
太平洋戦争中から戦後もしばらく、莞は母 禎子(竣介の妻)に連れられて、彼女の郷里 島根県松江市に疎開していた。
父のいる東京に戻ったのは1947年1月、竣介が逝ったのは翌1948年6月であるから、幼い莞が父と過ごした時間は極く短い。
松本竣介は、生前殆ど名も絵も売れない画家だった。
彼の名が少しずつ知られるようになったのは、没後10年に当る1958年、神奈川県立近代美術館で行われた「松本竣介・島崎雞二展」以降である。
父であり画家であった竣介につき、美術史家や評論家、美術館学芸員、マスコミなどから取材を受けるようになって、「私自身があまりにも竣介について知らずにいたということを改めて自覚させられました」と、莞は本書で言っている。
母 禎子や近親、画家仲間達から「問わず語りに聞かされ、教えられた事柄を通して父・竣介像が形成され、加えて俊介が書き遺した文章を拾い読むなかから、おぼろげな竣介像を自分なりに紡ぎだして来た」が、竣介の生涯を今一度きちんと振り返り、事実に当って積極的に調べ直す事を莞は始めたのである。すると、書いておくべき事は、あれもこれもと膨らみ、それらを整理・体系化する(*1)のは大変な事だったが、ようやくこの1冊となった由。
その間に、2011年、母 禎子が亡くなるなど、直接的な関係者も次第に減っていき、莞も80歳を超え、残された時間も多くないと感じるようになった。
85歳になってようやく本書を出版するに至り、「息子たちや孫たちが、画家松本竣介に何らかの関心を抱いたとき」、これで「竣介を多少なりとも伝えることが」できる、と莞はひと息ついているところらしい。
「拙い文章」とは言っているが、内容は、事実の裏付けがしっかりしており、学問的な見地からしても大変内容の濃いもの(*2)にしあがっているのは確かだ。
(*1)(*2)
その内容は目次だけでも頷ける。端折らず全てを下にコピーする。
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はじめに
第一章 佐藤俊介――父勝身と「生長の家」
花巻での幼年期
盛岡での少年期
俊介の病 聴覚を失って
画家への目覚め
上京 太平洋画会研究所
赤荳(あかまめ)アトリエ
佐藤勝身と「生長の家」
俊介と「生長の家」、禎子との出会い
…第一章では、「松本竣介」の出生から成人し画家を目指す決心をした頃迄を扱っている。
彼は佐藤勝身とはなの次男として渋谷で生まれた。本名「佐藤俊介」。
ここではまず佐藤家の人々について書いている。
…佐藤俊介は2歳の時、父の郷里岩手県へ移住。
そして、13歳、中学入学直後、脳脊髄膜炎に罹り、高熱が続いたせいで聴力を失う。
17歳で上京、太平洋画会研究所に入る。
…父は日蓮宗系の団体「生長の家」に入信、俊介も同団体機関誌「生命の芸術」の出版編集に携わるも、宗教には興味を持たなかった。
同誌編集の仕事場で将来の妻 松本禎子と出会う。
第二章 松本家の人々――『雜記帳』と禎子
松本肇と恒
谷口雅春との出会いと自由学園
俊介・禎子の交際
俊介の分身、蔵書
画家佐藤俊介の仕事
結婚 佐藤俊介から松本俊介へ
念願の『雜記帳』発刊
長男晉の死
『雜記帳』の終焉
…佐藤俊介は24歳で松本禎子と結婚、松本に改姓。
この章では禎子の松本家の人々と、禎子本人について書いている。
…同年新居を持ちアトリエを「綜合工房」と名付ける。名の由来は「絵を描くだけでなく、あらゆる分野の文化を綜合、集積するための思考の場とする」との考えから。
…月刊誌「雑記帳」の発刊を開始。
「雑記帳」については前掲のリンクより�〇押�
夫婦共に出版編集の経験があった事が、その手助けとなった。
この出版を通して、美術や文学、幅広い人達との交流を得た。
竣介の膨大な読書の量とジャンルは遺された彼のアトリエで知られている。
だが事業としては成立せず翌年、第14号をもって廃刊。
第三章 「生きてゐる画家」――莞と俊介
太平洋戦争突入までの仕事
「生きてゐる画家」
《画家の像》と戦争画
太平洋戦争開戦と《立てる像》
幻の二〇〇号作品
「新人画会」そして俊介から竣介に
父竣介と私の時間
竣介のコミュニケーション能力
絵画制作の原点 デッサン
竣介の街歩きとスケッチ
作品制作のプロセス
…戦時体制になっていく世の中。本章では太平洋戦争と俊介との関りについて書いている。
1940年「みづゑ」誌に『国防国家と美術―画家は何をなすべきか―』と題する軍人らの恫喝的な座談記事が掲載される。
俊介はこれに対し、『生きてゐる画家』という一文を書いて反論、翌年の同誌3月号に掲載。
竣介及び彼が属した「新人画会」の戦争と戦争画に対するスタンスは以下レポート参。
・「上京〜 松本竣介展/世田谷美術館」(2013.1.11記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1888605932&owner_id=3341406
彼の代表作《立てる像》(1942)の画像もここに貼付している。
・「賀茂真淵記念館講座「画家と戦争」第1回 �◆粗E鳥娘B勝�(2024.6.30記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987899271&owner_id=3341406
…名前を「俊介」から「竣介」に変えたのは、父 佐藤勝身の提案だったとの事。調べてみると字画が良くないから、というのが理由だった由。父としては、息子を聾者にしたという責任を感じ続けていたのかもしれない。
1944年、32歳、これより彼は作品へのサインを我々が親しんでいる「松本竣介」に変えた。
(続く)
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